世界恐慌とファシズム(1930年代)

(前史)19世紀後半のヨーロッパ

世界恐慌とは

ニューヨーク株式市場の大暴落

29年10月、ニュヨーク市場で株価が暴落。これをきっかけに、アメリカは空前の恐慌に襲われた。金融機関の倒産や閉鎖が相次いだ。労働者の4人に1人が失業者になった。

フーヴァー=モラトリアム

 恐慌になると、アメリカの資本家はヨーロッパなどから資本を引き揚げた。そのため、不況は瞬く間に広がった。ドイツは賠償金が支払いできなくなり、イギリスやフランスの国債償還にも影響が出るようになった。

 31年、アメリカのフーヴァー大統領は、賠償・国債(戦債)の支払いの1年間停止を行った。これはフーヴァー=モラトリアムと呼ばれた。

 しかし、恐慌は1年でおさまらず、フーヴァー=モラトリアムはほとんど効果がなかった。

影響

 恐慌の影響で、国際問題への関与も消極的になった。これにより、国際連盟の活動が低迷した。

 日本やドイツが、国際連盟を離脱。 

各国の対策

アメリカ ニューディール政策

 32年大統領選挙で政権交代。民主党のフランクリン=ローズヴェルト大統領が誕生した。この政策はニューディール(新規まき直し)政策が始まった。

  • 銀行救済
  • 金本位制の停止 → 金融緩和
  • 農業調整法AAA → 農産物価格の引き上げ
  • 全国産業復興法NIRA → 工業製品の価格協定の公認
  • テネシー川流域開発公社 → 公共事業

 民主党政権は労働者向けの政策を進めた。35年、ワグナー法。労働組合に団結権と団体交渉権を認めた。38年、産業別組織会議CIOが成立した。

 外交では、国民の不安を取り除き、ファシズム国家(日本、ドイツ、イタリア)に対抗した。33年、F=ローズヴェルト大統領はソ連を承認。34年には、キューバに対してプラット条項を廃止。ラテンアメリカを市場に取り込むドル経済圏をうくろうとした。この外交政策は善隣外交と呼ばれた。

イギリスのブロック経済

 29年、第2次マクドナルド労働党政権が成立。マクドナルドが緊縮財政のために失業保険の削減を行おうとしたが、労働党の反発を受けた。

 マクドナルド氏は総辞職。保守党などを政権に加えて挙国一致内閣を成立させた。32年5月、オタワ連邦会議でブロック経済の導入を決定。

 35年。保守党政権が成立。ドイツとの対決を避けるため宥和政策をとった。

フランスのブロック経済

 33年1月、ヒトラー政権が成立。フランスも極右政権が台頭。

 危機感を持ったのが左派政党である。中道左派の社会党と急進社会党が共産党に接近。35年、独ソ相互援助条約を締結。翌36年、左派連立政権が成立。人民戦線内閣と呼ばれた。

日本とブロック経済

 アメリカ、フランス、イギリスは植民地を含めた保護貿易政策(ブロック経済)を展開した。これにより、日本やドイツは世界市場から締め出された。

日本 満州事変

不況下の日本

10年代後半、大戦景気に沸く

23年、貿易が不調になり、景気が悪化し始める。

27年、金融恐慌

 経済は混乱し、労働争議が多発、社会不安が広がった。政治では、政党間の政権争いが続いていた。 

 日本国民は、新たなリーダーを求め始めるようになった。

満州事変

 31年9月、日本の関東軍は、柳条湖で鉄道を爆破。これを口実に軍事行動を開始。中国東北部(満洲)の大半を占領した。これを満州事変という。関東軍とは、日本陸軍の部隊で、中国東北部(満洲)を担当していた。

 32年、上海事変。

国際連盟脱退

 中華民国の要請で、国際連盟がリットン調査団を派遣。

 32年7月、日本軍(関東軍)は、満州国を建国。満州事変の正当性を示した。満州国の皇帝には、清王朝最後の皇帝、溥儀を据えた。

 一方、リットン調査団は、日本政府の自衛権の発動という主張を否定。国際連盟もこれを支持。33年3月、日本は国際連盟を脱退した。

 日本は、中国では華北の平定を目指した。日本国内では軍事クーデターが起きた。32年の五・一五事件、36年の二・二六事件はその一例である。

国民党と共産党

 中華民国は、関税自主権を回復。

 蒋介石の南京国民政府は、華北での日本の侵攻ではなく、陳独秀率いる瑞金の中国共産党との戦いに力を入れていた。

 34年、陳独秀率いる中国共産党は、瑞金を捨てた。ソ連に近い延安を目指した。これが長征である。この過程で台頭したのが毛沢東氏である。

 35年、南京国民政府は、通貨を統一。イギリスとアメリカがこれを支援。これにより、地方の軍閥の力は弱まった。

第二次国共合作 vs日本

 35年8月、中国共産党の八・一宣言。内戦を停止し、民族統一戦線で日本軍と戦うことを南京国民政府に求めた。

 これを支持したのが、元軍閥で国民党員の張学良である。36年、張学良は西安(昔の長安)にいた。国民政府の蒋介石は、張学良に出兵を求めた。張学良は、蒋介石に内戦停止と抗日を主張。蒋介石はこれを受け入れた。この事件を西安事件という。

日中戦争

 37年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。同37年9月、第二次国共合作が成立。

 37年末には、華北の要地と南京を占領。南京占領時には多数の中国人を殺害した。

 ただ、この日本軍の中国での行動は、国際世論の批判を浴びた。アメリカ・イギリスは蒋介石を、ソ連は毛沢東ら共産党を支援した。

 蒋介石は、南京が占領されると西へ逃げた。南京→武漢→重慶。重慶政府を築いた。

汪兆銘親日政権

 一方、日本は、40年に親日の汪兆銘を首班とする政府を南京に建てた。

ヒトラー

ヒトラーとナチ党

 30年、野党のナチ党と共産党が議席を伸ばす。これにより国会は機能停止状態になった。

ナチ党の特徴はいかのとおりである。

  • 指導者はヒトラー
  • イタリアのファシズムを学ぶ
  • ユダヤ人排斥を主張する人種差別主義
  • 多額の賠償金などのヴェルサイユ条約破棄。

現実的でない過激な政策と政敵への暴力は広く受け入れられなかった。

しかし、世界恐慌による社会不安で、ナチ党の支持者が増加した。32年、ナチ党は第一党に。翌33年1月、ヒトラーは首相に任命された。

ヒトラー総統

 国会議事堂放火事件をきっかけに、共産党を弾圧。

 全権委任法で、立法権を国会から政府に移した。

 与党を非合法化し、一党独裁を実現した。

 その後、基本的人権や市民的自由は無視されるようになった。政治的反対派やユダヤ人は、ゲシュタボ(秘密警察)などによって監視され、強制収容所に押し込められた。

 34年、ヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは大統領の権限を兼任。ここから、ヒトラー総統と呼ばれるようになった。

 ヒトラー総統は、アウトバーンなどの公共事業を行い、景気を回復。イタリア=ファシズムにならって、レクリエーション組織や福祉事業を整備した。ラジオの普及もこの時であった。

再軍備

 33年、ドイツは国際連盟を脱退。

 35年、住民投票でフランスのザイール地方を編入。同35年、ヒトラーが再軍備を宣言。

 再軍備に対して、イギリス、フランス、イタリアが抗議。

 しかし、イギリスはすぐに和解。ドイツと海軍協定を締結。制限を付けて、海軍の保有を認めた。

 一方、フランスは強硬に反発し続けた。そして驚異的な政策に出た。ソ連との条約締結である。36年、独ソ相互援助条約を調印。ドイツはロカルノ条約を破棄。ラインラントへ進駐。

 こうしてヴェルサイユ体制は崩壊した。

ソ連とスターリン

世界恐慌

 20年代のソ連は孤立していた。それは経済面にも当てはまる。これにより、世界恐慌の影響は受けなかった。

スターリン

 スターリンは、古くからの有力指導者を、大量に投獄・処刑(粛清)を行った。これにより、スターリンは独裁体制を確立した。個人崇拝も進めた。

 33年、第2次五か年計画スタート

 35年、スターリン憲法を発布。

外交

 34年、フランスの援助でソ連が国際連盟に加盟。

 35年、コミンテルンは反ファシズム人民戦線を結成。日本やドイツなどのファシズム国家との対決姿勢を示した。

ファシズム国家

イタリア エチオピア侵攻と国際連盟脱退

 イタリアは、植民地が少ないため世界恐慌は深刻であった。そのため、植民地獲得に必死になった。

 35年、エチオピアへ侵攻。翌36年、エチオピアを植民地にした。

 イギリスとフランスは、国際連盟を使ってイタリアに経済制裁を行った。しかし、世界恐慌の最中。経済政策を守る余裕はなかった。そのため、効果はなかった。国際連盟は威信を失った。

 イタリアは、ナチス=ドイツに接近。36年、ベルリン=ローマ枢軸を結成。

スペイン内戦

31年、スペイン=ブルボン朝が倒れ共和制へ。政局は混乱した。

36年、社会党系の人民戦線派が選挙で勝利。旧王党派軍人のフランコ将軍が反乱。

ソ連が政府側を、イタリアとドイツは反乱軍側を、それぞれ支援した。

イギリスとフランスは、不干渉の立場をとった。しかし、政府側に義勇軍として参加。水面下で資金面でも援助した。

39年、フランコ将軍の反乱軍が勝利した。

三国防共協定

36年、日独防共協定

36年、ベルリン=ローマ枢軸

37年、日独伊三国防共協定

37年、イタリア、国際連盟脱退。