近代のインド ムガル帝国

(前史)デリースルタン朝

ムガル帝国

建国者バーブル

ムガル帝国の成立

 ムガル帝国が成立したのは16世紀初頭のことである。ムガル帝国の建国者はバーブルである。ティムールの子孫と自称していた。アフガンの統一を試みるも失敗。ムガルとは、モンゴルのインド訛りである。

 パニーパットの戦いでデリー=スルタン朝最期の王朝であるロディー朝を破る。

 都は、デリー=スルタン朝の都であるデリーを都とした。当時の征服範囲は北インドのみであった。宗教はスンナ派イスラム教を信仰していた。

 2代皇帝フマユーンの時代、アフガン勢力に一時デリーを奪われた。しかし、イランのサファヴィー朝の支援でデリーを奪還した。

シク教

 カビールは、ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラム教のスーフィズムを説いた。不可触民への差別を否定した。

 ナーナクは、カビールの政協を受けて、シク教を開いた。司教はインド北西部のパンジャーブ地方を中心に広まった。

インド版織田信長 アクバル

政治と軍事

 16世紀半ば、アクバルがムガル皇帝に即位。

 官僚制を整備した。この制度をマンサブタール制という。階級制度を設け、階級に応じた軍事力と給与が与えられた。

 給与は、土地からの徴税権とした。イクター制度を継承した。

 中央集権制を強化。全国を州県郡に分け、検地を実施した。

 新首都アグラを建設した。

 北西インドのラージプート勢力(ヒンドゥー教勢力)を従えた。

ヒンドゥー教徒との融合

 アクバルは、ヒンドゥー教徒との融合政策をとった。ヒンドゥー教徒を役人に採用、自らもヒンドゥー教徒と結婚した。

 アクバルは、シズヤを廃止した。シズヤとは、イスラム教徒以外の人に課せられた人頭税である。

タージマハル

 16世紀初頭、4代皇帝ジャハンキールが即位。イランのシーア派政権サファヴィー朝と戦う。当時のサファヴィー朝は、アッバース1世の全盛期である。

 16世紀前半、5代皇帝シャー=ジャハーンが即位。イラン文化とインド文化が融合したインド=イスラム文化の全盛期を迎える。

 絵画では、ミニチュアール(細密画)が発達。

 公用語は、ペルシャ語から、ペルシャ語と古来のインドの言語が融合したウルドゥー語が成立した。ウルドゥー語は現在パキスタンの公用語である。

 文学 →『バーブル=ナーマ』『アクバル=ナーマ』

 また、インド=イスラム文化の最高傑作であるタージ=マハルが建設されたのもこの時代である。タージ=マハルは王妃の廟(墓)として作られた。

南インド

 14世紀にヴィジャヤナガル王国が成立。西アジア(エジプトのマムルーク朝など)とのインド洋交易で栄えた。綿花やサトウキビを輸出。西アジアから馬を輸入。輸入した馬で軍事力を高めた。

 15世紀末、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマが来航。16世紀初頭に港町ゴアを占領。

 16世紀、ヴィジャヤナガル王国が全盛期を迎える。

 17世紀、ムガル帝国などのイスラーム勢力との抗争で衰退。南インドの地方勢力が自立していく。

インドの分裂

アウラングゼーブ帝の宗教弾圧

 17世紀半ば、アウラングゼーブ帝が即位。

 ムガル帝国は、タージ=マハルの建設費用などで財政が傾いた。

 インド南部のデカン高原を征服。最大版図を獲得した。

 地租を強化したが、商品作物や商工業への課税は行わなかった。

 アウラングゼーブ帝は、前皇帝への反発からイスラム教(スンニ派)をあつく信仰した。財政難からシズヤを復活。ヒンドゥー教徒が強く反発。アウラングゼーブ帝は容赦なく弾圧した。

農民反乱と分裂

 アウラングゼーブ帝の宗教弾圧は、地方の独立運動につながった。

 南インドのデカン高原では、ヒンドゥー教徒がマラーター王国を建国。

 インド北西部(パンジャブ地方)では、シク教徒が反乱を起こした。

 18世紀初頭、アウラングゼーブ帝が亡くなると、ムガル帝国は後継者争いで衰退。デリー周辺の地方政権になった。

 インド北東部のベンガル地方や南インドのデカン高原に独立政権が次々成立した。

 このころ、ヨーロッパの進出も強まった。17世紀にはイギリスやフランスが進出した。

東南アジア

 16世紀、ポルトガルが進出した。16世紀初頭、スマトラ島(マレーシア)のマラッカ王国を占領。マラッカ国王は、ジョホール王国を建国した。

 ムスリム商人は、マラッカ海峡が使えなくなったので新たな航路の開拓を進めた。それによって、東南アジア諸島部に多くのイスラム国家が成立した。

 スマトラ島(マレーシア)北部にはアチェ王国が成立。ジャワ島(インドネシア)東部では、マラタム王国がマジャパヒト王国を征服。ジャワ島(インドネシア)西部には、バンテン王国が成立した。

 これらの国は、18世紀に入るとオランダに征服されていく。

 一方、半島部では、タイのアユタヤ朝とミャンマーのタウングー朝が抗争を続けていた。ベトナムは、大越国が武人同士の抗争で衰退。フエに拠点をおいた阮氏が自立した。

 16世紀前半、スペインも東南アジアへ進出した。16世紀前半、マゼランがフィリピンに到達。16世紀後半、フィリピンに港湾都市マニラを建設。

 スペイン商人は、ガレオン船でマニラとアカプルコ(メキシコ)を往復。メキシコ銀で、中国産の絹・陶磁器やインド産綿布を購入した。

 中国の明王朝は、絹や陶磁器の輸出で銀(日本銀、メキシコ銀)が大量流入した。その拠点がマカオであった。これにより、銀が基本通貨となった。これが明王朝末期の一条鞭法や清王朝の地丁銀につながる。

 日本の16世紀は戦国時代。各戦国大名は鉱山開発を進めた。世界遺産の石見銀山もその一つである。17世紀に江戸幕府が成立。朱印船貿易が行われた。これにより、東南アジアには日本町ができる。しかし、17世紀半ばの鎖国政策で東南アジアとの交易はなくなった。

 17世紀に入ると、イギリス・オランダが東南アジアへ進出した。ヨーロッパの香辛料需要の高まりをうけて、両国は17世紀初頭に東インド会社を成立した。おなじころ、日本の江戸幕府は、外交顧問にイギリス人とオランダ人を迎えた。

 17世紀前半、東南アジアでアンボイナ事件が発生。イギリスはこの戦いでオランダに敗北。東南アジアから撤退した。以後、インドとの交易に軸足をおく。

 一方、オランダは、鎖国下の日本(江戸幕府)と貿易を継続した。