近代① アジアの繁栄

概要

 14世紀から18世紀にかけてのアジア地域を見ていきます。この時期アジアは、アジアの4大帝国の全盛期である。清王朝(中国)、ムガル帝国(インド)、サファヴィー朝(イラン)、そしてオスマン帝国(トルコ)である。

 スタートは、13世紀のモンゴル帝国の崩壊である。16世紀には、ポルトガルが来訪。そして、17世紀にイギリス・フランスが登場する。

中国① 明王朝 

中国史の流れは以下のとおりである。ここで扱うのは太字の部分です。

 中国文明→周王朝→春秋戦国の戦乱期(キングダム)→秦漢王朝→魏晋南北朝の戦乱期(レッドクリフ)→隋唐王朝→五胡十六国の戦乱期→宋王朝→元王朝→明王朝→清王朝→中華民国→中華人民共和国

 14世紀初頭、中国はモンゴルの支配下にあった。しかし、紅巾の乱でモンゴルに戻る。その後成立したのが漢民族の明王朝である。

 モンゴルの影響は、東アジア各国に大きな影響を与えた。鎌倉幕府の滅亡はその一例である。明王朝は、律令制を回復した。

 15世紀初頭、後継者争い(靖難の役)で永楽帝が即位した。鄭和の大航海はこの時に行われた。東アジアや東南アジア各国は朝貢を行うようになった。

 16世紀に入ると、北方の騎馬民族の侵攻や東シナ海の海賊(倭寇)に苦しめられた。(北虜南倭問題)。東シナ海の海賊は、独自の交易圏が形成され、ここにはポルトガルやスペイン章にも参加した。

 16世紀に入ると、陶磁器・生糸(シルク)などの輸出が進んだ。そのため、それまで穀倉地帯であった長江下流域は工業化した。そのため、穀物の供給拠点は長江中流域に変わった。日本やアメリカ大陸から銀が流入。税金が銀に一本化された。(一条鞭法)。

中国② 清王朝

 17世紀、明王朝が滅亡。中国東北部の満州族(女真族)が中国大陸を統一した。清王朝である。政治制度は明王朝のものを踏襲した。しかし、文化面では、満州族の文化を強制した。辮髪はその一例である。

 現在の中国の領土はこの時期に確定した。シベリアへ進出したロシアとの交流もこの時期に始まった。

 朝鮮は、儒教に精通した貴族(両班)が政治を取り仕切るようになった。琉球は、日本(薩摩藩)と清王朝に両属するようになった。日本(江戸幕府)は、鎖国に入り朝貢を行わなくなった。

 清王朝期の経済は、絶好調であった。この時期多くの中国商人が東南アジアへ進出した。彼らは華僑と呼ばれた。税金では、人頭税を廃止した。(地丁銀制)。貿易では、特定商人に独占させる海禁政策をとった。典礼問題をきっかけにキリスト教の布教が禁止された。

西アジア(トルコとイラン)

 13世紀末、西アジアの大部分はモンゴル帝国の支配下にあった。

 14世紀半ば、ティムール朝が成立。中央アジアからイラクまでを勢力下に置いた。ティムール朝は16世紀に衰退した。

 13世紀末、セルジュークトルコの残党からオスマン帝国が成立。トルコとバルカン半島に拠点を置いた。15世紀初頭にティムール朝に敗北、滅亡の危機に瀕した。しかし、その後復活。15世紀半ばにビザンツ帝国を滅ぼし、バルカン半島とトルコを支配するようになった。16世紀には、エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、シリア・エジプトまで国土を広げた。16世紀のイタリア戦争に乗じて、スレイマン1世がウィーン包囲を実施。

 一方、16世紀、ティムール朝が滅亡したイランではサファヴィー朝が成立。世界の半分といわれたイスファハーンが建設された。

インドと東南アジア

 13世紀、インドはヒマラヤ山脈のおかげでモンゴルの支配下に入らなかった。ここでは、奴隷王朝から始まるデリー=スルタン朝が続いた。この時代から、少数のイスラム教徒が多数派の清ずー教徒を支配する構造ができた。

 16世紀、衰退したティムール軍がインドへ侵入。ムガル帝国が成立した。

 16世紀後半、アクバル帝が即位。北インドを統一。ヒンズー教徒にやさしい政治を行った。

 17世紀前半、世界遺産になるタージマハルが完成。しかし、膨大な建築費は批判を浴びた。

 17世紀後半、アウラングゼーブ帝が即位。南インドの大部分を征服。最大版図を獲得した。タージマハルへの批判をうけて、イスラム教の強化政策を行う。これにより、異教徒の反乱が続出。

 アウラングゼーブ帝が亡くなると、マラーター王国など地方政権が次々成立した。この時代から、イギリス商人やフランス商人の進出が始まる。英仏植民戦争に巻き込まれていく。

 話は、東南アジアへ移る。東南アジアは香辛料の産地である。16世紀(大航海時代)のヨーロッパでは、香辛料は高価な品であった。16世紀、ポルトガルやスペインの商人が登場する。当時の東南アジアは倭寇の交易圏であった。ポルトガルは、マラッカ海峡を支配。スペインは、フィリピンを植民地にした。フィリピンのマニラには

 16世紀末には、日本(徳川家康)の朱印船やイギリスやオランダの商人が進出した。