(前史)元王朝の衰退
14世紀の東アジア
日本 鎌倉→南北朝→室町
13世紀後半、鎌倉幕府はモンゴル軍(フビライ)を撃退した。しかし、財政難により14世紀前半、武士のクーデターで滅亡した。後醍醐天皇を中心とした南朝と足利尊氏を中心とした北朝の戦乱の時代に入った。南北朝の動乱である。
この混乱で、日本の治安は大いに乱れた。そのため海賊や山賊が多くなった。九州の海賊は朝鮮半島や中國大陸にも侵攻した。彼らは倭寇(前期倭寇)と呼ばれた。
92年、足利義満が南北朝を合一。戦乱の時代は終わった。源頼朝が征夷大将軍になってちょうど300年後の出来事であった。
朝鮮半島 高麗→朝鮮
14世紀の朝鮮半島は、高麗王朝の時代。元王朝の属国になっていた。当時の高麗王朝は、親元派と反元派の対立が続いていた。
朝鮮半島南部で倭寇(前期倭寇)の海賊活動が活発化。その海賊退治で名声を高めたのが李成桂であった。李成桂は高麗王朝を倒して朝鮮王朝をたてた。この年は、足利義満が南北朝を統一した92年であった。
13世紀~14世紀初頭の明王朝
紅巾の乱
14世紀、世界全体で自然災害や疫病が流行。それは東アジアも例外ではなかった。
仏教をもとにした宗教結社である白蓮教徒が反乱を起こす。その中で頭角を現したのが中国南部の朱元璋である。
朱元璋は貧農出身である。科挙が亡くなって没落した儒学に精通した知識人を味方につけた。
明王朝の成立
朱元璋は、長江下流域の穀倉地帯を抑えた。14世紀半ば、南京で皇帝につき、明朝を建国した。朱元璋は洪武帝を名乗った。
建国者 洪武帝
洪武帝の政治の特徴は、皇帝権力の強化であった。三省の一つ中書省を廃止。六部を皇帝に直属させた。
中書省は、唐王朝の時代に成立する。この時は勅令(皇帝の命令)を起草する部署であった。門下省が勅令をチェック。尚書省が六部を使って実行した。宋王朝の時代になると、中書省が門下省を併合。元王朝の時代には、尚書省も併合。行政のトップとなった。中書省のトップは丞相(じょうしょう)と呼ばれた。
農村の統治では里甲制をとった。里老人を使って六諭(6か条の教訓)を農民に浸透させた。戸籍(賦役黄冊)と土地台帳(魚鱗図冊)を整備した。
律令制を整備。軍事では衛所制を編制した。自分の息子を北方(モンゴル)の辺境に当たらせた。
貿易では、海禁政策をとり、民間の貿易を禁止した。一方で朝貢貿易を促進した。
靖難の役(北京 vs 南京)
14世紀末、洪武帝が亡くなると建文帝が即位。建文帝は、クーデター防止のため、北方の警備に当たっていた兄弟たちの勢力を削減した。
これに対抗したのが、北京周辺の燕を統治していた燕王であった。燕王は南京を制圧。永楽帝として即位した。
永楽帝
永楽帝は、都を南京から北京(元王朝の大都)に移した。モンゴル遠征を実施。ベトナムを一時占領。鄭和の大航海を実施した。
15世紀前半のアジア
朝貢貿易と永楽帝
明王朝を拠点とする朝貢貿易は、東アジアからインド洋に至る広い範囲で行われた。とくに、15世紀前半の永楽帝の時代に最盛期を迎えた。これは東アジアや東南アジアに大きな影響を与えた。・
(沖縄)琉球王国
沖縄は、14世紀まで戦乱が続いていた。15世紀、中山王が統一した。首里城はその時の都である。琉球王国は朝貢貿易を利用した中継貿易で大いに栄えた。
(東南アジア)マラッカ王国
マラッカ王国は、マレー半島(マレーシア)に14世紀末に成立した国である。マラッカ王国は15世紀前半の鄭和の大航海で成長。インド洋と東南アジアをむすぶマラッカ海峡を抑え、ジャワ島(インドネシア)のマジャパヒト王国にかわる東南アジア最大の貿易国になる。
(朝鮮)世宗大王
14世紀末に成立した朝鮮王朝では、明王朝への朝貢国になった。科挙の整備や朱子学などの導入などの明の制度を取り入れた改革を行った。
15世紀前半の世宗大王時代には金属活字の出版やハングル(訓民正音)の制定などが行われた。
(日本)足利義満
14世紀末、南北朝を合一した足利義満は、朝貢貿易を再開した。9世紀末に廃止された遣唐使以来である。
足利義満は、倭寇の取り締まりを行い、前期倭寇は沈静化した。
(ベトナム)永楽帝の支配
ベトナムは、14世紀初頭に永楽帝の遠征により明王朝の支配下に入った。しかし、永楽帝が亡くなると独立。黎朝が成立した。
(モンゴル)土木の変
明王朝に追われたモンゴルは、14世紀後半に東のタタールと西のオイラトに分裂した。15世紀初頭、永楽帝の侵攻を受ける。しかし、朝貢貿易で大いに栄えた。
永楽帝が亡くなると、明王朝は、財政難から朝貢貿易の回数や規模を制限した。モンゴルの人々はこれに不満をもち、明王朝へ侵攻した。
15世紀半ばには、西のオイラト族がエセン=ハンの元で巨大になった。北京を包囲し、明の皇帝を捕虜にした。この事件を土木の変という。
(16世紀)明王朝と大航海時代
大航海時代
ここから、16世紀の話に入る。大航海時代に入り、東南アジアにはヨーロッパ船が東南アジアに進出するようになった。
東南アジアでは、マレーシアのアチェ王国や、ミャンマーのタウングー朝が台頭した。これらの国は明王朝に頼らず、軍事力で勢力を拡大した。
北虜南倭
16世紀の明王朝は、北虜南倭に苦しんだ。
北虜は、モンゴルの侵攻である。朝貢貿易の回数削減と規模の制限に不満を持っていた。16世紀に入ると、東のタタールが力をつけていた。その中心はアルタン=ハンである。16世紀半ばにはアルタン=ハンも北京包囲を実施した。
南倭は、後期倭寇のことである。15世紀前半は日本の室町幕府の取り締まりで前期倭寇は沈静化した。しかし、15世紀半ばの応仁の乱で取り締まりが緩んだ。これにより、後期倭寇が台頭した。後期倭寇の中心は、中国南部の密貿易が主力である。役人の取り締まりに対抗するために武装化した。その代表が日本(長崎)の五島列島に拠点を置いた王直である。王直はポルトガル商人を連れて種子島で鉄砲を伝えたといわれている。
銀の流入
北虜南倭を受けて、明王朝は海禁政策を緩和した。モンゴルとは交易場を設け、民間人の海上交易を認めた。
このころから、日本銀やメキシコ銀が中国に流入するようになった。
また、多くの中国商人が東南アジアに進出。各地に中国人町をつくった。華僑の始まりである。
明王朝後期の経済と文化
経済
生産量の向上
海禁政策の緩和により、国際商業は活発化した。外国向けの工業品需要が高まり、商工業が発展した。
もともと穀倉地帯であった長江下流域では、綿織物や生糸などの家内制手工業が盛んになった。そのため、穀物生産用の水田は、綿花や桑に変わった。
明代末期には、穀物供給拠点は長江の下流域から中流域に変わった。「湖広熟すれば天下足る」
また、景徳鎮に代表される陶磁器の生産も盛んになった。
特権商人
この時代、明王朝と結びついた特権商人が巨万の富を築いた。山西商人や徽州(新安)商人が代表例である。彼らは、互助や親睦を図るため会所や公所が作られた。
(税制)両税法→一条鞭法
16世紀に入ると、大航海時代が本格化。銀が大量に流入した。
これにより、税制も変わった。各種の税や徭役(軍役などの義務)を銀納に統一された。これを一条鞭法という。
格差
明代末期は、格差が拡大した。都市には商人や郷紳などの富裕層があ妻った。郷紳とは、科挙の合格者や官僚経験者で、郷里の名士。
一方で、佃戸(小作人)は、小作料の削減を求める運動を行った。これを抗租運動という。
文化
美術 董其昌
董其昌のように高級官僚を経験しながら、美術や書道で名声を高める人が多かった。
文学 小説の流行
三国志演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅などの小説が多くの読書を獲得。庶民向けの文化も広がった。
木版印刷により、書物の出版が急増した。
儒学 陽明学の始まり
儒学では、王陽明が知行合一を説いた。この学問を陽明学という。
西洋の科学技術
ヨーロッパの影響で科学技術に関する本を多く出版された。本草綱目、農政全書、天工開物などである。
キリスト教
これらの科学技術を広めたのは、キリスト教の宣教師であった。16世紀半ばのフランシスコ=サビエルや16世紀末のマテオ=リッチがその一例である。
キリスト教は、科学技術や軍事技術に興味を持った士大夫層に広がった。
マリオ=リッチが持ってきた世界地図(坤世万国全図)は、中国に最新の地理の知識をもたらした。
16世紀の東アジア
日本
戦国時代
応仁の乱により、室町幕府の権威は低下。戦国時代が始まった。15世紀初頭に鉄砲が伝えられると経済力が重要になった。そのため、各戦国大名は鉱山開発にいそしんだ。石見銀山はその一例である。
織田信長は、南蛮貿易で経済力を獲得。大量の鉄砲を手に入れ勢力を拡大した。しかし、応仁の乱で暗殺された。
豊臣秀吉
16世紀後半、豊臣秀吉は天下統一。さらに領土拡大で朝鮮半島へ侵攻した。明の援軍や李舜臣の活躍で朝鮮出兵は失敗に終わった。
徳川家康
17世紀に入ると、徳川家康が江戸幕府を開く。朱印船貿易で経済力をつけた。日本銀で中国産生糸を大量に輸入した。
東アジアの交易では、マカオに拠点を置いたポルトガルと、ダイワンに拠点を置いたオランダが対立した。
徳川家光と鎖国
17世紀前半、キリスト教の禁止と貿易の統制を強化。日本人の海外渡航を禁止。ポルトガルの来航を禁止した。いわゆる鎖国政策である。
女真族
女真族
女真族は、中国東北部の民族である。農牧や狩猟で生活。16世紀、女真族は明王朝の支配下にあった。
金王朝の復活
17世紀初頭、女真族の長であるヌルハチが明王朝から独立し、アイシン(満州語で金)を建国した。金は、12世紀に成立した女真族の国である。
清王朝
アイシンの第2代皇帝ホンタイジ(太宗)は、皇帝と称し、国号を清王朝とした。
明王朝の衰退
明王朝の衰退
16世紀の明王朝は北虜南倭に苦しんだ。さらに追い打ちをかけたのが16世紀末の2つの民族である。朝鮮半島へ侵攻した豊臣秀吉(日本)とヌルハチ(女真族)の独立運動である。
2つの戦いは、軍事費を増大させ、財政を圧迫した。
明王朝の滅亡
17世紀半ば、李自成が挙兵。北京を占領し、明王朝を滅ぼした。