絶対王政と海外進出

(前史)大航海時代

15世紀から、16世紀にかけてスペインとポルトガルを中心にアジアやアメリカへ向けた航路を開拓した。両国はアジアやアメリカの特産物を安く輸入することで多くの富を得た。

 今回は、新たな航路を使っていかにヨーロッパ諸国が富を増大させるかを見ていきます。

アジア市場の攻防

ポルトガル

15世紀末に、パスコ=ダ=ガマがインド航路を開拓。トルデシリャス条約でアジア交易を独占することができた。

 16世紀に入ると、南インドのゴアを占領。ここをアジア交易の拠点とした。香辛料などの東南アジア産商品をめぐり、ムスリム商人と争った。そのほか、中国(明王朝)や日本(戦国時代)との交易を繰り返した。

 ポルトガル王室は、無謀な戦争やアジア貿易の独占で貴族の反感を買った。ポルトガル国王が戦死すると、ポルトガルの貴族たちは、スペイン国王フェリペ2世を国王に迎え、スペインと同君連合になった。

スペイン

 スペインは、トルデシリャス条約でアジア市場に参入することはできないはずだった。しかし、マザランが世界一周を達成。太平洋航路を獲得。東南アジアのフィリピンを占領。メキシコと府フィリピンを結んでアジア交易を開始した。

 16世紀後半のフェリペ2世の時代に入ると、ポルトガルと同君連合になる。これにより、太陽の沈まぬ国となった。

オランダ

 オランダは、16世紀後半にスペインから独立を宣言。独立戦争が勃発した。

 17世紀に東インド会社を設立。東南アジアのジャワ島(インドネシア)を拠点に展開。スペインの同君連合であるポルトガルの拠点を次々奪っていった。

 17世紀初頭は、スペイン・ポルトガルの同君連合と戦うため、イングランドと同君連合を築いていた。

 しかし、17世紀前半にエリザベス女王が亡くなった頃から、両国は対立するようになった。アンボイナ事件をきっかけにオランダはインドネシアからイングランドを追放。東南アジアの交易を独占した。

 さらに17世紀に成立した江戸幕府(徳川政権)に接近。島原の乱の鎮圧に協力し、鎖国下の中でも交易を続けた。また、一時台湾を占領した。

 さらに、南アフリカにケープ植民地を建設した。

イングランド

 17世紀初頭に、東インド会社を設立。オランダと協力しながらアジアのポルトガル拠点を奪っていた。

 しかし、アンボイナ事件で東南アジアから撤退。インド経営に注力するようになる。

 17世紀半ば、クロムウェルが航海法を制定るすると英蘭戦争が起こった。再び東南アジアへの進出を試みるようになる。

 17世紀後半に、名誉革命でオランダと同君連合になる。このうして、イングランドはオランダに代わり世界の交易の派遣を握るようになる。

フランス

 フランスも17世紀初頭に、東インド会社を設立。しかし、まもなく活動を休止した。17世紀後半のルイ14世の時代に再建された。新しい東インド会社は、インドへ進出していた。インドに進出していたイングランドはイギリス革命の最中であった。

イングランド vs フランス

 インドは、17世紀初頭にイングランドが進出。17世紀半ばにイギリス革命が始まると、フランスが進出した。

 17世紀末に名誉革命が終結すると再びイングランドがインド市場に戻ってきた。ここからイングランドとフランスのインドでの覇権争いが始まる。

 18世紀半ばの七年戦争でイングランドがフランスに勝利。フランスがインドから撤退。イングランドがインド交易を独占するようになった。

アメリカ争奪戦

スペインの鉱山開発

 アメリカ大陸に最初に進出したのは、スペインである。15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸を発見。16世紀に入ると、コルテスがアステカ王国(メキシコ)を、ピサロがインカ帝国(ペルー)を征服した。16世紀半ばには、ポトシ銀山が発見せれ鉱山開発が進んだ。

 鉱山開発には、当初、先住民であるネイティブアメリカン(インディアン)が使われた。しかし、過酷の労働と疫病の流行で大幅に人口が減少した。そのため、アフリカ大陸から黒人奴隷を輸入して労働力にあてた。

ポルトガルとブラジル

 一方、ポルトガルはトルデシリャス条約でアメリカ大陸に進出できなかった。しかし、ブラジルは、東に突き出ていた関係でポルトガル領になった。現在、中南米のほとんどの国がスペイン語を公用語にしているが、ブラジルだけはポルトガル語を公用語としている。現在、ポルトガル語を母国語としている人が一番多いのはブラジルである。

オランダとニューヨーク

 16世紀後半に、オランダ独立戦争が勃発。アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊が敗れるとスペインの衰退が始まった。これにより、台頭してきたのがイングランドとオランダである。

 オランダは、17世紀西インド会社を設立。アフリカとアメリカを結ぶ交易に力を入れた。

 オランダのアメリカ北東部のニューアムステルダムを拠点に動いた。しかし、17世紀後半の英蘭戦争に敗れると、ニューアムステルダムはイングランドへ割譲された。この地はその後ニューヨークと呼ばれるようになった。

 ちなみに、ニューヨークのウォール街はオランダの拠点の城壁があったことからつけられた。

イングランド

 イングランドも17世紀初頭からアメリカへ進出した。最初に進出したのが、アメリカ南東部であった。エリザベス女王にちなんでヴァージニア植民地が建設された。

 スチュアート朝が成立すると、イングランド国内でピューリタンの迫害が強まった。これにより、一部のピューリタンがアメリカ大陸へ亡命した。彼らは、ニューアムステルダムの北、アメリカ北東部のボストンへ進出した。

 17世紀後半に、英蘭戦争でニューヨークを獲得。オランダをアメリカ大陸から撤退させた。

 18世紀前半には、アメリカ東海岸をほぼ制圧。アメリカ13植民地が形成された。

 イングランドからの入植者の大部分は、先住民とあまり交流せず、農場経営に従事した。

フランス

 フランスも17世紀初頭にアメリカ大陸に進出した。当時のフランスはユグノー戦争直後で疲弊していた。そのため、寒いカナダに進出した。

 17世紀後半のルイ14世時代に入ると、海外進出は強化された。アメリカも例外ではなかった。ミシシッピ川沿いにアメリカ中央部の探検が行われた。そして、アメリカ中央部の広大な平地にルイジアナ植民地を建設した。

 フランスの入植者は、イングランドの入植者と異なり、ネイティブアメリカンとの交易で生計を立てていた。

イングランド vs フランス

 18世紀に入ると、このイングランドとフランスが激突した。

 17世紀初頭のスペイン継承戦争では、フランスはイングランドにカナダ(ケベック)を割譲。

 17世紀後半の七年戦争のときにルイジアナの東半分をイングランドに割譲。西半分を同盟国のスペインに割譲し、フランスはアメリカ大陸から撤退した。

アメリカ独立戦争へ

 イギリスは、七年戦争などの戦費を国債で調達した。国債の償還のためにアメリカ13植民地に課税を行おうとした。植民地の人々はこれに反発。これがアメリカ独立戦争へつながる。

奴隷貿易

黒人奴隷とアフリカ大陸

 アフリカの奴隷交易の始まりは中世である。ムスリム商人がアフリカ東海岸で奴隷貿易を開始したのが始まりである。

 15世紀、ポルトガルがアフリカ西海岸で奴隷の調達を開始した。当初は本国や船上での労働力として雇われた。16世紀に入り、ポルトガルがアジアへ進出すると黒人奴隷はアジア市場にも出回った。

 余談であるが、織田信長は、宣教師の黒人奴隷であった弥助を家臣に取り立てている。

 ポルトガルは、沿岸部の村にに武器(鉄砲)を売却。沿岸部の人々は内陸部の村を征服。そこの住人を奴隷にしてポルトガルへ売却した。

 ポルトガルは、一時期、戦国時代の日本でも行っていた。九州のキリシタン大名の中には、ポルトガルへの奴隷貿易で国力を増強させた国もあった。これが16世紀末のバテレン追放令につながった。ただ、アフリカ大陸ほど大規模なものにはならなかった。

 16世紀後半、アメリカの鉱山開発で労働力不足が発生すると、黒人奴隷の需要が急増した。これにより、多くの黒人奴隷がアフリカ大陸へ渡ることになった。

 17世紀に入ると、スペインに代わり、イングランドやオランダがアメリカ大陸に進出。彼らは鉱山開発ではなく、奴隷制大規模農場経営を行った。この農場経営では、砂糖・綿花・タバコ・コーヒーなどが栽培された。温暖な気候でしかできないため、アメリカ南東部や西インド諸島で行われた。この奴隷制大規模農場経営によって、奴隷の需要は衰えることはなかった。

 19世紀までに1000万人以上の黒人奴隷がアフリカ大陸からアメリカ大陸に渡った。

三角貿易

 貿易船は、ヨーロッパからアフリカへ、武器(鉄砲など)や雑貨を輸出。アフリカ大陸からアメリカ大陸へ、黒人奴隷を輸出。アメリカ大陸からヨーロッパへ、農産物(綿花など)を輸出。これを三角貿易という。 

 これにより、ヨーロッパでは消費文化にアメリカ産の農産物(タバコやコーヒーなど)が溶け込んでいった。また、三角貿易で資本が蓄積。18世紀後半の産業革命につながる。一方で、アフリカ大陸では、若い労働力の不足で貧困にあえぐようになる。これが19世紀後半のアフリカ分割や現在の貧困問題につながる。