絶対王政期のヨーロッパの国々

(前史)17世紀前半のヨーロッパ

 16世紀から17世紀前半にかけて、3つの大きな戦争が勃発した。16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、17世紀前半のドイツ三十年戦争である。

 これらの戦争で、貴族は没落。国王の権力は増大した。

概要

重商主義政策

 重商主義とは、国家財政(王室の財政)を富ませるための政策である。16世紀に鉄砲などの最新兵器が登場。これにより、軍事コストは増大した。さらに、官僚や親衛隊への給料も発生。王室の財政の重要度が増大した。

 16世紀は、鉱山開発によって、国家財政を維持しようとした。これが重金主義である。その中心は、スペインのハプスブルグ家であった。しかし、16世紀の終わりになると鉱山も枯渇しつつあった。17世紀に台頭するイギリスやオランダは、貿易差額主義をとった。自国製品を高く売って国を富ませようとした。

 17世紀半ばには、フランスも東インド会社を設立し、アジア交易に参入した。貿易差額主義では、自国製品を高く売る市場を必要とした。その市場を求めて、植民地獲得競争を行うようになった。その主戦場は、インドとアメリカであった。

イギリス

ステュアート朝

 16世紀は、テューダー朝の時代である。しかし、17世紀に入り、バージンクイーンことエリザベス1世が亡くなる。これにより、テューダー朝が断絶。イングランドは、スコットランドから国王を迎えた。これがステュアート朝である。

 17世紀初頭のイギリス政治は、ジェントリーを中心としたイングランド議会で動いていた。しかし、ステュアート朝の国王はこれを無視した。国王ジェームス1世は、王権神授説を唱え、議会を無視して増税を行った。また、都市の大商人に優遇政策を行った。

 その不満の受け皿になったのが、熱心なカルヴァン派であるピューリタンであった。

 28年、イングランド議会は権利の請願を可決。チャールズ1世は議会を解散させた。それ以後、イングランド議会は開かれなかった。

ピューリタン革命

 30年代末、スコットランドで大反乱。チャールズ1世は反乱鎮圧の費用のたまに増税を行うことになった。そのため、40年、議会を招集した。これをきっかけにピューリタン革命が始まった。

 42年、国王派議会派の間に内戦が起こった。その後、議会派は、王政を残し憲法で規制する立憲君主制を目指す穏健派の長老派と国王を処刑して共和政を目指す過激派の独立派に分裂した。

 独立派のクロムウェルが鉄騎隊を編成し、議会派を勝利に導いた。その後、議会から長老派を追放。49年、国王チャールズ1世を処刑。共和政を打ち立てた。

クロムウェルの共和政

 クロムウェルは、急激な改革を進めようとした水平派を弾圧。一方で、王党派の拠点になったアイルランドやスコットランドを征服した。

 特にアイルランドでは土地没収が行われ、事実上の植民地になった。アイルランドの土地は、イングランドの所有地になった。土地を失ったアイルランドの人々は、イングランドの人々の小作人になるようになった。

 クロムウェルは、ジェントリー出身である。そのため、地主層に有利な政策が行われた。

 51年。クロムウェルは航海法を制定。イングランドに入れる船をイングランド船か原産国の船に限定された。端的に言えばオランダ船の締め出しである。これにより、英蘭戦争が勃発した。英蘭戦争は60年代、70年代に行われた。

王政復古

 53年、護国卿クロムウェル死去。イギリス議会は、議会を尊重することを条件にチャールズ2世を国王に迎えた。

 しかし、チャールズ2世は、議会を軽んじた。そして、カトリックの擁護を試みた。

 議会は、これに対抗して審査法と人身保護法を制定した。審査法は、官僚はイギリス国教会の信者のみとした。人身保護法は、国王が勝手に逮捕できないことにした。

 このころから、国王派のトーリ党と反国王派のホイッグ党という2つの派閥が登場した。

名誉革命

 85年、ジェームズ2世が即位。ジェームズ2世も議会を軽視した。そこで、議会は88年、オランダに嫁いだメアリ2世とその夫ウィリアム3世をイングランド国王にむかえた。

ジェームズ1世は、抗戦することなくフランスに亡命した。89年、ウィリアム3世、メアリ2世夫妻は、権利の宣言を受け入れて王位に就いた。議会は、この権利の宣言を権利の章典として制定した。

 まだ、この時代の議会は、貴族(地主)の代表であり、現在の議会のように全国民の代表ではなかった。

アン女王とハノーヴァー朝

 18世紀に入り、アン女王が即位。それまで、同君連合であったイングランドとスコットランドを合同し、大ブリテン王国が成立した。

 アン女王が亡くなるとウィリアム3世の遺言でドイツからジョージ1世を国王に迎えた。ここからハノーヴァー朝が始まった。これが現在まで続くウィンザー朝となる。

ジョージ1世の時代に入ると、政治は首相に任せられるようになった。初代首相はホイッグ党のウォルポールであった。

フランス ルイ14世

ヴェルサイユ宮殿

 61年、宰相マザランが死去。ルイ14世の親政が始まる。兄弟の権力を握り、太陽王と呼ばれた。

 ヴェルサイユ宮殿を建設。宮廷文化が花開いた。

 また、侵略戦争を繰り返し、国土を拡大した。スペイン=ハプスブルグ家から后を迎えた。

ナントの王令廃止

 85年、宗教の自由を定めたナントの王令を廃止。カトリックの強制が始まった。ユグノーたちは周辺諸国へ亡命。国内産業の発展が阻害された。

スペイン継承戦争

 18世紀に入り、スペイン=ハプスブルク家が断絶。つぎのおういをめぐり、オーストリアと戦争になった。これがスペイン継承戦争である。

フランス革命へ

ドイツ
 プロイセンvsオーストリア

ドイツ三十年戦争

 オーストリアはドイツ三十年戦争に敗北。神聖ローマ帝国は事実上崩壊。オーストリアは一諸侯になった。一方で、一諸侯に過ぎなかったプロイセンは、この頃から徐々に力をつけてきた。

スペイン継承戦争

 18世紀に入ると、スペイン=ハプスブルグ家が断絶。フランスとオーストリアが王継承権をめぐり戦争を開始した。プロイセンはオーストリアを支援。その見返りにプロイセンは王国に昇格した。

オーストリア継承戦争

 18世紀半ば、スペイン=ハプスブルグ家につづき、オーストリア=ハプスブルグ家も断絶した。

 マリア=テレジアの夫が神聖ローマ皇帝に就いた。これに待ったをかけたのがバイエルン公である。プロイセンも、バイエルン公がわにつき、オーストリアからシュレジエンを獲得。

 この時、フランスはバイエルン・プロイセン側に、イギリスは、オーストリア側にそれぞれついた。

七年戦争

 オーストリアのマリア=テレジアは、シュレジエンを奪還するため

ロシア

ピョートル1世

 17世紀後半の農民反乱を鎮圧し、皇帝に即位。オランダで造船技術を学ぶ。帰国後、軍備拡大にいそしむ。清王朝とネルチンスク条約を締結。オスマン帝国を圧迫して黒海北部へ進出した。

 18世紀初頭、北方戦争でスウェーデンに勝利。バルト海の覇者となる。このとき、都をモスクワからバルト海沿岸のペテルブルグへ移動した。これにより、スウェーデン・ポーランドに代わり、ロシアが東欧の強国になった。

エカチェリーナ2世

 18世紀後半の七年戦争後に即位。黒海の沿岸のクリミア半島へ進出。日本にラスクマンを派遣した。

 内政面では、当初は啓蒙専制君主として様々な改革を実施。プガチョフの反乱を鎮圧。晩年は、貴族に妥協して農奴制を強化した。

ポーランド

 14世紀に成立したヤゲヴォ朝が16世紀後半に断絶。選挙王政へ移行した。

 18世紀後半、七年戦争に勝利したプロイセンが、ロシア・オーストリアとともにポーランド分割を行った。アメリカ独立革命の義勇軍に参加したコシューシコがこれに抵抗したが、失敗した。

 19世紀に入り、ナポレオンがポーランド(ワルシャワ大公国)を復活させたが、ウィーン体制でロシアと同君連合になった。