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イギリス史

1930年代のイギリス 世界恐慌とブロック経済

1930年代、世界各国は世界恐慌の対応に追われていた。このような中、台頭したのがナチスドイツである。このことが第2次世界大戦につながる。

 このころ、イギリスは広大な植民地を持っていた。そのためこの広大な植民地を生かした保護貿易を行った。これがブロック経済である。これにより追い出されたのが日本とドイツである。この2つの国がイギリスに対して牙をむくことになる。

前回の復習 40年代、第二次世界大戦下のイギリス

 第二次世界大戦は、3つのグループに分かれた。イギリス、アメリカ、フランスを中心とした連合国。ドイツ、日本を中心とした枢軸国。そしてソ連と各国共産党である。30年代の国際情勢はこの形成過程を見ていくことになります。

 また、政治面では第二次世界大戦終結するとアトリー労働党政権が誕生した。30年代の労働党と保守党の政策を見ていきます。

30年代の国際情勢 世界恐慌下の世界

 29年、世界恐慌が勃発した。世界各国は失業率が急上昇した。19世紀までであればこれを革命にならない程度に放置すればよかった。しかし、第一次世界大戦以降、先進国では普通選挙が一般化した。そのため、失業対策は必須案件となった。1番目にこれを見ることになる。

 この失業対策で人気を獲得したのがヒトラーである。外交面では、ヒトラーへの対応で見ていくことになる。

労働党マクドナルド首相

失業保険問題で挙国一致内閣(保守党、自由党との大連立内閣)へ

 29年、労働党過半数を確保。初の労働党の単独内閣が成立した。しかし、その直後、世界恐慌が発生した。イギリスの失業率は30%を超えた。これにより、失業保険の支払いで財政はひっ迫した。そのため、マクドナルド首相は失業保険の支給額の引き下げを余儀なくされた。これに対して、労働党マクドナルドに対して除名処分を出した。

 これを救ったのが野党の保守党である。労働党マクドナルド派と保守党、自由党の連立内閣をマクドナルド挙国一致内閣という。

マクドナルド首相の経済政策 (VS世界恐慌

 マクドナルド首相は、失業保険の10%削減を行った。その後、金本位制をやめた。当時の通貨は金と交換が可能であった。そのため、通貨の発行量に上限があった。それ停止することで通貨を無制限に発行することが可能になった。現代の日本でいえば量的緩和でデフレから脱却するようなのものである。

 貿易面では、植民地を利用した保護貿易政策をとった。ブロック経済である。植民地間や植民地とイギリス本国との貿易の関税は引き下げるものの、それ以外の国には高い関税率をかけた。この政策はEUやAPECなどの貿易政策につながる。イギリスは、植民地に保護貿易政策を認めさせる代わりに、自治権を拡大させた。この政策が第二次世界大戦後の独立運動につながる。一方で、このブロック経済で締め出されたのが日本とドイツである。このブロック経済政策が第二次世界大戦をよりしんこくなものとさせた。

対米交渉、ロンドン海軍軍縮会議とヤング案

 ドイツは第一次世界大戦賠償金に苦しんでいた。29年、アメリカが賠償金の削減と支払機関の延長を提案した。戦勝国のイギリスとフランスは、多額の債務をアメリカに握られているためこの提案を受け入れざるを得なかった。
 しかし、29年の世界恐慌で、ドイツはアメリカの資金援助が受けられなくなりヤング案でも支払えなくなった。

 22年のワシントン海軍軍縮条約の期限が切れていた。27年のジュネーブ海軍軍縮条約で期限が延長される予定であったがこれは決裂していた。しかし、29年になり世界恐慌が起こるとアメリカもイギリスも海軍に予算を割く余裕がなくなっていた。そのために利用したのが日本である。ワシントン会議では、米:英:日が10:10:6であったのに対し、ロンドン海軍軍縮会議では、米:英:日は、ほぼ。10:10:7となった。

対日外交、満州事変でリットン調査団が和平案を提案

 30年、英米日仏伊でロンドン海軍軍縮条約が成立した。これにより、当面の和平が約束されたものと思われた。
 しかし、すでに日本政府が軍部をコントロールできなくなっていた。31年9月、中国東北部満州で軍部が暴走した。満州事変である。32年2月、国際連盟はイギリス人のリットン調査団を派遣した。一方、日本は32年3月満州国の建国を発表した。辛亥革命で皇帝の地位を追われた清王朝最後の皇帝溥儀を皇帝につけた。

 32年10月、リットン報告書がまとめられた。これによると満州事変は日本の侵略行為と断定し、日本軍の満州からの撤退を要請した。しかし、後半で、日本の満州での権益を認めておりそのために日本軍を置くことを認めていた。表向きは、中華民国の言い分を認めたが、実質的には日本に有利な内容になっていた。

 しかし、日本の世論はこれを許さなかった。32年5月、日本の海軍将校が犬養首相を暗殺(五一五事件)がおき、33年1月には、満州国中華民国の熱河に侵攻した。

 33年2月、日本と国際連盟の交渉は決裂。日本は国際連盟から脱退した。翌34年にはロンドン海軍軍縮条約も破棄された。日本の離脱によって、国際連盟の影響力はなおいっそう弱まった。

 この事件は、20世紀以降の戦争は、世論が同意しなければ講和ができないことを示している。45年日本が講和に手間取ったのもこれが要因になったと推測される。

 最後に、国際連盟は、第一次世界大戦後の成立した国際組織で、国際連合の前身となるものである。詳細は、次回1920年代のイギリス編を参照してください。

 対ドイツ外交 ナチスドイツへの台頭

 一方、ドイツは世界恐慌の打撃を受けていた。そのような中で台頭していきたのが共産党とナチ党である。当然、共産党の後ろにはソ連がいる。32年7月の議会選挙で、ナチ党が第1党になる。33年1月、ヒトラーは、首相になる。33年2月、国会議事堂放火事件で共産党議員の大部分を逮捕した。33年10月国際連盟を脱退。34年8月ヒトラーが総統になる。これは首相兼大統領のことになる。35年3月再軍備を行った。

保守党チェンバレン首相 ヒトラーとの蜜月関係

 37年、保守党ネヴィル=チェンバレン首相が誕生した。19世紀末に活躍したジョセフチェンバレン首相の息子である。いわゆる二世議員である。

ソ連の防波堤として、ヒトラーを利用する

 このころ、ソ連共産党を通じてヨーロッパに影響力を高めていった。イギリスに対してもストライキ攻撃を仕掛けていた。

 そのような中、35年3月、ヒトラー再軍備宣言を行った。これに危機感を覚えたフランスは、ソ連と相互援助条約を締結した。

 そのころ、政権がマクドナルド首相から保守党ボールドウィン首相に移った。ボールドウィン首相は、フランス同盟を結んだソ連を警戒して、ドイツのヒトラー英独海軍協定を締結した。

 そのような中、36年スペイン内戦がおこった。ヒトラー総統は、現政権のフランコ将軍を支援した。一方で反乱軍である人民戦線を支援したのは、ソ連スターリン書記長である。イギリスとフランスは中立を保った。

ヒトラーの領土拡大政策を黙認

 37年5月、チェンバレンが首相に就任。38年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合。チェンバレン首相はこれを黙認した。38年9月、チェンバレン首相とヒトラーが南ドイツでミュンヘンで会談。チェンバレン首相は、中欧チェコスロバキアのスデーテン地方のドイツ併合を容認した。

チェンバレン首相、ヒトラーに裏切られる。

 年が変わって39年3月、ヒトラーは、ミュンヘン会談を無視してチェコスロヴァキアを解体した。39年4月、ポーランドとの相互不可侵条約を破棄した。ポーランドは、これに対し、イギリス、フランスに支援を求めた。

 39年8月、ヒトラーはとんでもない外交政策を打ち出した。ソ連スターリン書記長と相互不可侵条約を締結した。当然、これはポーランド分割のためである。一方、イギリスは、ポーランドの支援要請に応じ、ソ連に裏切られたフランスとともに英仏ポーランド相互援助条約を締結した。そして、39年9月、ドイツはポーランドへ侵攻。第二次世界大戦が勃発した。

 これにより、イギリスとドイツは修復不能な亀裂が生じた。第二次世界大戦はイギリス VS ドイツの構造になってしまった。これに対してキャスティングボードを握ったのがソ連、日本、アメリカということになる。最終的にはアメリカとソ連がイギリスに、日本がドイツにつき、ドイツが敗北することになった。

軍人チャーチルが首相に

 ドイツの裏切りにより、チェンバレン首相はイギリス国民の支持を失った。後を継いだのがドイツ開戦を訴え続けていた元軍人チャーチル首相である。これにより、ドイツとイギリスの講和の可能性が完全になくなった。

サイドストーリー1 経済学者ケインズが論文を発表

 36年、イギリスの経済学者ケインズが「雇用・利子および貨幣の一般理論」を発表した。これは金融政策(金利の引き下げ)や財政政策(公共事業や減税)によって景気を回復させることができるという考え方である。これは、世界恐慌下のアメリカ、ドイツ、日本で採用され、この理論が実証された。しかし、第二次世界大戦後、この政策を継続した結果、各国政府は莫大な債務を抱えることになった。イギリスの英国病や70年代のアメリカの不況はこれが原因であった。

 ちなみに、ケインズはドイツにかけられた莫大な賠償金をみて、これは第二次世界大戦が起こると予測していたという逸話が残っている。

サイドストーリー2 王冠を掛けた恋

 36年1月、イギリスではエドワード8世が国王に即位した。しかし、アメリカ人の既婚女性と恋に落ちる。これは、イギリス国王として許されざる恋であった。36年12月、国王の地位を弟ジョージ6世に譲り、イギリスを去った。このニュースは「王冠を掛けた恋」として世界中を共感させた。

 ジョージ6世は、病弱ながらも第二次世界大戦を戦い抜き、1951年に崩御。現在のイギリス女王エリザベス2世が誕生する。

 エドワード8世は、ヒトラーと友好関係を築いていた。そのため、エドワード8世が国王であればナチスドイツとイギリスが友好関係を築き、第二次世界大戦を回避できたかもしれない。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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