カテゴリー
トルコ・ギリシャ史

18世紀前半のトルコ・ギリシャ チューリップ時代のオスマン帝国

18世紀前半、日本は暴れん坊将軍こと徳川吉宗の時代である。

18世紀後半のオスマン帝国

ヨーロッパのとの力関係の変化

 18世紀後半になると、アジアとヨーロッパの力関係が変わり始めた。オスマン帝国も例外ではない。ロシア、オーストリア、フランスの攻撃を受け、領土は縮小した。

サウジアラビアの台頭

 18世紀半ば、アラビア半島にワッハーブ王国が建国された。ワッハーブ王国は、サウジアラビアの前身となる国である。アラブ人のサウード家とワッハーブ派が結び付いて建国した国である。ワッハーブ派は、ムハンマド時代のイスラム教に戻れというイスラム教の一派である。そのため、サウジアラビアは今でも宗教政策は厳格である。

ナーディルシャー(イラン)

 サファヴィー朝イランは、中央アジアのアフガン人の侵入デア衰退傾向にあった。そこにトルコ系騎兵集団出身のナーディルシャーが登場。サファヴィー朝が復活した。ナーディルシャーはサファヴィー朝の皇帝(シャー)を廃位し、自ら皇帝(シャー)となった。アフシャール朝の始まりである。

 ナーディルシャーは、サファヴィー朝時代にオスマン帝国へも侵攻。カフカス地方(グルジア、アゼルバイジャンなど)を奪った。一方で、インド方向へも侵攻。ムガル帝国の首都デリーを攻撃した。

ピョートル大帝(ロシア)

 18世紀前半、ロシアはピョートル大帝の時代である。ピョートル大帝は、北方戦争でスウェーデンを破り大国の仲間入りを果たした。

 ピョートル大帝は、オスマン帝国へも侵攻。黒海の北にあるアゾフ海へ進出した。

vsオーストリア(バルカン半島)

 オーストリアは、ハプスブルク家が統治していた。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝だあるが、皇帝権力は名ばかりのものになっていた。

 17世紀末、カルロビッツ条約で、オスマン帝国は、ハンガリー、スロヴァニア、クロアチアを放棄した。また、18席初頭、パッサロヴィッツ条約でさらにバルカン半島の領土は縮小された。

 しかし、この後、オーストリアのオスマン帝国への神鋼は止まった。オーストリア継承戦争が始まったのである。

チューリップ時代

 18世紀前半のオスマン帝国は、領土は縮小したが比較的安定した時代であった。そのため、この時代はチューリップ時代と呼ばれている。なおこの時代のスルタンはアフメト3世である。

 同盟国のフランス文化がオスマン帝国宮廷に反映された。宮廷にはサロンがおかれ、コーヒーやお酒がふるまわれ、ダンスパーティーが開かれた。文化面が花開いた一方で軍事面では急速に衰えた。これが18世紀後半以降の粒度縮小につながる。

 このチューリップ時代の背景には太陽王ルイ14世がいる。当時のフランスは、ルイ14世の全盛期であった。ただ、ルイ14世が敗戦を繰り返すようになるとチューリップ時代も終わりを告げるようになる。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です