17世紀後半のトルコ・ギリシャ オスマン帝国とモーツァルト

17世紀後半、オスマン帝国は衰退期に入りつつあるも、以前、ヨーロッパに脅威を与え続けていた。この時期に第2回ウィーン包囲が行われた。これによって、アジアの文化がヨーロッパにもたらされた。その代表例がモーツァルトのトルコ行進曲であった。

それまでの歴史

 14世紀から19世紀にかけて、バルカン半島からトルコを支配していたのはオスマン帝国である。18世紀に入るとオスマン帝国は衰退期に入っていく。その理由は大国化していくロシアの存在があったからである。

ロシアにアゾフ海を奪われる

 ロシアのピョートル1世は、黒海の北にあるアゾフ海をオスマン帝国から奪った。この後、ピョートル1世は北方戦争でスウェーデンに勝利。ロシア帝国の礎を築く。

VS オーストリア 第二回ウィーン包囲

 オスマン帝国のメフメト4世は、ドイツ三十年戦争で荒廃したオーストリアへ侵攻した。

 オスマン帝国は、フランス国王ルイ14世の中立の約束を得て、オーストリア=ハプスブルク家の支配に反発する諸侯を味方につけて、15万の大軍でウィーンを包囲した。これは、16世紀前半、スレイマン1世が行って以来の出来事であった。

 しかし、ウィーンの城壁が固く、ウィーンは陥落できなかった。オーストリア=ハプスブルク家は、ポーランド軍の援助を受けてオスマン軍を撃退した。

 余談だが、この時のオスマン軍の軍隊の音楽を模して造られたのが、モーツァルトのトルコ行進曲である。それとともにトルコ風のものがおおくヨーロッパにもたらされた。その代表格がコーヒーである。

 オスマン帝国は、この後も敗走を繰り返し、オーストリアと講和。ハンガリー、スロべニア、クロアチアをオーストリアに割譲した。これにより、オーストリアは多民族国家へ変貌した。

ヴェネツィアからクレタ島を獲得

 オスマン帝国は、ヴェネツィアに勝利。レパントの海戦の雪辱を果たす。オスマン帝国は、この時ヴェネツィアからクレタ島を獲得した。オスマン帝国のクレタ島支配は19世紀後半のベルリン条約(露土戦争)でイギリスに割譲されるまで続いた。

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