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アメリカ史

1980年代前半のアメリカ レーガン大統領と強いアメリカ

 1980年代、土曜日の夜にひょうきん族やドリフの全員集合で家族のだんらんを過ごしていた。

 そのころアメリカでは、共和党レーガン大統領が誕生した。レーガン大統領は、外交面でも経済面でも大きく転換した。

共和党 レーガン大統領

 80年大統領選挙に勝利、翌81年に大統領に就任した。当時としては最高齢のアメリカ大統領であった。元々は二流のハリウッドスターで、俳優労働組合の委員長を務めた。戦後の赤狩りで活躍した。カリフォルニア州知事を経て大統領となった。

 それまで、大統領選挙は現職民主党カーター大統領との戦いであった。当時、民主党のカーター大統領の弱腰外交が批判を浴びていた。イラン革命時のアメリカ大使館人質事件やソ連のアフガニスタン侵攻がその例である。

強いアメリカ

新冷戦(米ソ関係)

 70年代、米ソの関係は改善された。この時代はデタントよばれる。しかし、蜜月は続かなかった。

 79年、ソ連は、中央アジアのアフガニスタンへ軍事介入した。これは、アフガニスタンの共産党政権を守るためである。レーガン大統領はこれに対抗した。イスラム系の反政府組織に軍事支援を行った。その組織が後のタリバンである。

 80年、モスクワオリンピックが開催された。アメリカなどの一部の西側諸国はこれをボイコットした。これに対抗して、ソ連などの東側諸国は84年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。

イランイラク戦争

 79年、イラン革命が発生。親米のハプレヴィー朝が倒れ、反米のホメイニ師が指導者となった。このころ、隣国イラクで、スンニ派政権が成立した。フセイン大統領の誕生である。

 80年、この2か国で国境紛争が勃発した。これがイラン=イラク戦争である。アメリカはイラクを支援した。ソ連も。イランがアフガニスタンの反政府組織を支援するのを警戒して、イランを支援した。

カリブ海外交

 60年代のキューバ危機以降、アメリカは中米諸国の社会主義国に寛容な対応をとっていた。しかし、レーガン大統領はこの外交方針を変えた。ニカラグアなどの中米の社会主義国に次々介入していった。

レーガノミクス

財政赤字

 80年代、新古典派経済学が流行。小さな政府理論がもてはやされた。イギリスのサッチャー首相の民営化政策がその一例である。日本でも、中曽根首相がJR(鉄道)やJT(タバコ)の民営化を行った。

 レーガン大統領も減税による景気回復を行った。そのため、社会保障費の削減を行った。しかし、国防費が増大。財政は赤字化した。

プラザ合意

 85年、アメリカは双子の赤字に悩まされていた。特にやり玉に挙がったのが、西ドイツと日本である。

 レーガン大統領は、85年ニューヨークのプラザホテルに5か国の財務大臣を集めた。アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツと日本である。このプラザホテルの会談で、ドル安の協調介入を行うことが決定された。当時1ドル=240円であったものが、1ドル=200円まで円高ドル安になった。

 日本は、円高不況を避けるため、低金利政策を実行した。これによってバブル経済が始まった。また、日本企業は工場の海外移転を始めた。NIEsの発展はこの時に始まった。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

「1980年代前半のアメリカ レーガン大統領と強いアメリカ」への2件の返信

[…]  40年代から始まった冷戦は、80年のソ連アフガニスタン侵攻でさらに強まった。しかし、米ソはその後明暗がくっきり分かれた。ソ連は、経済的に困窮。さらにチェルノブイリ原発事故で国民の支持を失う。これにより国家の維持が危うくなった。一方、アメリカは70年代の不況を乗り越え、レーガノミクスの成功で最高潮に達していた。 […]

[…]  ソ連の対日参戦は、この会議の最大のポイントであった。ヨーロッパ戦線のみを考えれば英仏のみで勝利することは確実であり、戦後秩序を考えれば強気の交渉ができた。しかし、対日戦線はそうではなかった。そのため、ソ連の協力を必要とした。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の3か月後(8月6日)に日ソ中立条約を破棄して対日参戦を行うことになった。個人的な見解だが、日米の対立によって40年代の冷戦を生み、80年代の日米協調(レーガンと中曽根首相)が冷戦の終結に結び付いたと考える。 […]

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