1900年代のアメリカ Th=ローズヴェルト大統領の棍棒外交

 00年代、日本は日露戦争に勝利したころである。これを仲介しが、アメリカである。この時の大統領は共和党のTh=ローズヴェルト大統領である。

 経済面では、

Th=ローズヴェルト大統領の外交

タフト大統領のドル外交

 09年に就任したタフト大統領は、外交政策を大きく転換させた。軍事力から経済力を使った外交政策である。経済力をりようして、ラテン=アメリカや東アジア(清王朝)への影響力を高めようとした。

日露戦争を仲介

 アメリカは、米西戦争の影響で90年代の中国分割に出遅れた。99年に門戸開放宣言を出すものの効果はなかった。

 00年代に入り、アメリカは千載一遇のチャンスを得る。日露戦争である。日本は開戦前から短期決戦になるように外交戦を繰り広げていた。ロシアは、ドイツとフランスを味方につけいた。そのため、日露戦争が勃発すると、ベトナムからフランス軍が来ることは確実であった。そのため、日本は日英同盟を締結した。04年、英仏は日露戦争に巻き込まれないように英仏協商を締結。日露戦争では互いに中立の立場をとることを明確にした。

 日本は、日露戦争の仲介役を模索していた。日本側のイギリス、ロシア側のフランスとドイツは仲介国になることはできなかった。そこで白羽の矢が立ったのが中国進出を目指すアメリカであった。日本は日本海海戦でバルティック艦隊を撃沈させるとアメリカを仲介役とした講和会議に入った。日露は、アメリカの仲介でポーツマス条約を締結。ロシアを中国市場から撤退させた。

 ポーツマス条約締結後、桂=タフト協定(密約)を締結した。これにより、日本の朝鮮支配とアメリカのフィリピン支配を互いに承認した。

 この時、日本もアメリカも清王朝の下で自由交易をおこなうものとなった。しかし、清王朝は、第2のオスマン帝国となった。日本は、満州権益を通じて北部の軍閥と結びついた。一方でアメリカは、イギリスとともに上海の財閥と結びついた。上海の財閥から支持を集めていたがのが国民党の蒋介石であった。

棍棒外交とパナマ運河

 Th=ローズヴェルト大統領は、棍棒外交を展開していた。棍棒外交とは、軍事力(海軍力)を背景に優位に交渉を進める政策である。

 その典型例は、パナマの独立である。Th=ローズヴェルト大統領は、中米コロンビアからパナマを独立。さらに、パナマからパナマ運河の建設権を獲得した。パナマ運河とは太平洋と大西洋を結ぶ運河である。80年代フランスがパナマ運河の建設を計画したが、頓挫していた。

 90年代の米西戦争で独立させたキューバに対しては、憲法にプラット条項をつけさせた。アメリカはこの条項によって外交島でキューバに干渉ができるようになった。

Th=ローズヴェルト大統領の内政

共和党政権

 共和党の支持基盤は工場経営者が中心であった。そのため、Th=ローズヴェルト大統領はアメリカ産工業製品の市場を確保するため帝国主義政策を進めていった。

アメリカ経済の問題点

 00年代、アメリカ経済の問題点が顕在化していった。それは2点である。貧富の格差と独占資本の横暴である。

 一つは、貧富の差の拡大である。中小企業や労働者、農民の所得は疎外感を強めていった。

 資本が過度に集中し始めた。ロックフェラーやカーネギー、モルガンなどの巨大企業が登場した。 

革新主義(反トラスト法)

 資本の過度な集中は自由貿易を阻害し、格差を拡大させた。Th=ローズヴェルト大統領は独占に対ししての規制や労働者保護法の整備を進めた。

アメリカの文化

 このころ、ニューヨークに地下鉄が開通。ライト兄弟が人力飛行に成功。冒険家ピアリは北極点に到達した。

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