軍人皇帝時代の内乱期
五賢帝の時代の終盤に入ると、ローマ市民だけでは広大なローマ帝国を統治しきれなくなっていた。そのため、属州の上級市民にローマ市民権を与えて、協力を仰いだ。12年のカラカラ帝の時代には、属州をふくむすべての全自由人にローマ市民権が与えられた。
五賢帝時代が終わると、帝国のまとまりが徐々にくずれはじめた。各属州の軍団長が独自に皇帝をたてる軍人皇帝時代に入った。
84年ディオクレティアヌス帝がローマ帝国を再統一した。ディオクレティアヌス帝は属州を整理してローマ帝国を4分割して統治した。ディオクレティアヌス帝は従来のローマ風民主主義を否定。イラン風の専制君主制を導入した。
キリスト教の拡大
1世紀に成立したキリスト教は、3世紀の軍人皇帝の内乱期に急激に拡大した。その理由は2点ある。3世紀の軍人皇帝時代の戦乱によって人々は不安になり、キリスト教を信仰するようになった。2つ目に、ローマの混乱によってキリスト教の取り締まりが緩くなったためである。
ローマ帝国を再統一したディオクレティアヌス帝は、イラン風の統治を行おうとした。そのため、自らを神格化し、皇帝礼拝を強制した。これにキリスト教徒は反発。ディオクレティアヌス帝はキリスト教の大迫害を行った。
コロヌス制(小作人)による農業
2世紀まで、ローマ帝国で主流となる農業スタイルは、ラティフンディアであった。ラティフンディアとは、戦争で獲得した広大な土地と戦争奴隷を使って大規模農園を経営する方法である。
しかし、2世紀には領土の拡大は止まった。そのため、戦争奴隷の供給が止まった。これによって、ラティフンディアの経営者は労働力不足に悩まされた。
軍人皇帝時代、内乱が相次いだため財政がひっ迫した。ローマ帝国は都市市民に重税を課した。貧困化した都市市民や残っている戦争奴隷に土地を貸し出し、小作料で生活するようになった。農園主から土地を借りている人たちはコロヌス(小作人)と呼ばれた。
一方、異民族の侵入や内乱で、各属州は軍事力の増強が急務となった。提督(属州の長)は、都市に重税をかけるようになった。税金を納めるべき上級市民は都市を離れ、農場経営者へ変わった。また、パンとサーカスを行う余裕がなくなったので、下層市民も都市を離れた。彼らの多くは、コロヌスとなった。こうして、多くの都市は衰退していった。
ササン朝ペルシアの成立
一方、ローマ帝国の東にあったパルティアは3世紀に滅亡。3世紀にササン朝ペルシアが成立した。
シャープール1世の時代には、インドのクシャーナ朝を服従させた。シリア遠征の際には、ローマ皇帝を捕虜にした。
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