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8世紀のビザンツ帝国 アッバース革命

8世紀、日本は奈良時代。ビザンツ帝国は7世紀から続くイスラム勢力の侵攻に悩まされた。8世紀半ばのアッバース革命でイスラムの侵攻が少し止まった。しかし、ランゴバルド王国やブルガリア王国の侵攻に悩まされることになる。

イタリアからの撤退

 8世紀のイタリアは、ビザンツ帝国とランゴバルド王国で分割統治されていた。ちなみに、ビザンツ帝国のイタリアの拠点は東側(アドリア海側)のラヴェンナであった。ラヴェンナに拠点が置かれたのは6世紀のユスティアヌス帝の時代のことである。

 この時期ランゴバルド王国がラヴェンナへ侵攻。ビザンツ帝国はイタリアから撤退した。ランゴバルド王国はフランク王国に併合された。

 一方、バルカン半島ではバルカン半島東部にアジア系騎馬民族であるブルガリア王国が存在した。

アッバース革命

 イスラム勢力は、7世紀半ばにウマイヤ朝が成立した。ウマイヤ朝は、ビザンツ帝国への侵攻を進めながら、西欧にも侵攻した。西ゴート王国(スペイン)を滅ぼし、フランク王国へも侵攻した(トゥール=ポワティエ間の戦い)。

 しかし、ウマイヤ朝の侵攻が突如止まった。アッバース革命である。ウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が成立した。アッバース朝は、東の唐王朝へ向った。

 これにより、唐王朝は衰退。五代十国時代の戦乱期に向かった。一方で、ビザンツ帝国は14世紀まで生き延びた。また、フランク王国も存続。フランス、ドイツの下となった。

聖像禁止令

 7世紀に成立したイスラム勢力は、ビザンツ帝国からエジプトやシリアを奪った。

 イスラム教は、本来のキリスト教の教えである偶像崇拝を徹底していた。そのため、ビザンツ帝国内では偶像崇拝を禁止を望む声も多くなった。これをうけて、ビザンツ皇帝(コンスタンチノーブル教会トップ)は8世紀初頭、聖像禁止令を出した。

 聖像禁止令がでると、聖像破壊活動が各地で行われた。一方でローマ教会では聖像禁止令に反対していた。ローマ教会とコンスタンチノーブル教会との関係はさらに悪化した。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

「8世紀のビザンツ帝国 アッバース革命」への1件の返信

[…]  ユスティアヌス帝がなくなると、ランゴバルド族は東ローマ帝国から独立。ランゴバルド王国を建国した。イタリアは東ローマ帝国とランゴバルドで分割統治された。8世紀、ランゴバルド王国は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)をイタリアから撤退させた。 […]

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