カテゴリー
日本史

1990年代の自民党 非自民連立政権と政治改革

野中氏 vs 小沢氏

 90年代に入ると、国民は自民党の金権政治に嫌気を指していた。これにこたえるために小沢氏は政治改革に必死になっていた。

 竹下派の会長の金丸氏が失脚すると、小沢氏ら若手グループと野中氏らが対立した。小渕氏が次に会長になると、小沢氏らは自民党を離党。衆議院選挙で自民党が敗北。非自民連立内閣が成立した。

 しかし、90年代後半に入ると、野中氏ら逆襲。異例の自社さ政権を成立。野中氏らが政権を握るようになる。

冷めたピザ、小渕首相

 98年7月、社会党とさきがけが連立を離脱。

 同7月の参院選で、自民党は敗北。その責任をとり、橋本首相は辞任した。この頃自民党は、2つの流れができた。自社さ政権の再構築を求めるグループと小沢自由党と保保連合を組むグループである。

 自社さ政権は、主として親中派のハト派で構成された。加藤派(現在の岸田派)の加藤氏や小渕派(現在の竹下派)の野中氏が中心となった。一方、保保連合は、タカ派を中心に構成された。中曽根派(石原派、麻生派)の中曽根氏、三塚派(細田派)の亀井氏、小渕派(竹下派)の梶山氏が中心となった。

 そのような中、総裁選が行われた。総裁選には、小渕派(竹下派)の小渕氏、小渕派を離脱した梶山氏、三塚派(細田派)の小泉氏(小泉進次郎の父)が出馬。小渕氏が勝利した。田中真紀子氏は、この総裁選を「凡人・軍人・変人の総裁選」と評した。この総裁選は多くの派閥の分裂を引き起こした。

 小渕派(竹下派)は、梶山氏が離脱したが、小渕氏支持でまとまった。

 宮沢派(岸田派)は、加藤氏を中心に、小渕支持にまとまった。

 中曽根派(二階派)は、梶山氏を支持。しかし、YKKの加藤が山崎氏らを引き抜く。山崎氏らは、派閥を離脱して山崎派(石原派)を結成し、小渕氏に回った。

 三塚派は、小泉氏を支援したが、亀井氏ら離脱し派閥を離脱して梶山支持へ回った。そのため、小泉氏は最下位となった。派閥を離脱した亀井氏らは、中曽根派に合流した。また、この総裁選でYKKは、山崎氏・加藤氏と小泉氏に亀裂が生じた。これが2000年の加藤の乱につながる。

 首相指名選挙では、衆院では小渕氏、参院では民主党の菅氏が指名。衆議院の優越で、小渕政権が成立した。

 98年10月、民主党の金融再生法を丸パクリして成立させた。

 98年11月、公明党の意見を取り入れて地域振興券を発行。

 小渕首相は、財政出動(ばらまき政策)をして金融不況を脱した。小渕時代の財政出動は、小泉政権時代まで効果を及ぼした。そのため、小泉首相、自ら財政出動せずに好景気を得ることができた。

 99年01月、小沢自由党と公明党との連立政権が成立。

 99年09月、任期満了で総裁選。無投票再選を模索したが加藤派(岸田派)の加藤氏、山崎派(石原派)の山崎氏が立候補。小渕氏が精選した。加藤氏と山崎氏は、報復人事で政治の中枢から外された。これが2000年の加藤の乱につながる。

 00年4月、小沢氏が連立離脱を画策。自由党は分裂し、小沢自由党と保守党に分裂した。小沢氏らは、のちに菅氏らの民主党に合流した。

山一証券を廃業させた、橋本首相

 95年総裁選は、宮沢派(岸田派)の河野氏(河野太郎氏の父)と小渕派(竹下派)の橋本氏の一騎打ちとなるはずだった。宮沢派は、自派閥の河野氏ではなく、橋本氏支持へ回った。河野氏はこれにより、河野氏は宮沢派を離脱。98年、河野派を結成した。これがのちの麻生派である。

 代わりに対抗馬として立ったのが三塚派(細田派)の小泉氏であった。この総裁選で

 96年1月、村山首相が辞任。橋本自社さ連立政権が成立。

 橋本政権は、最初から爆弾を抱えていた。住専問題である。住専の不良債権処理に税金を投入しようとした。

 96年2月、クリントン大統領は普天間基地の返還協定を結んだ。

 96年9月、衆院選で自民党は議席を増やす。11月、社会党とさきがけは閣外協力の形になった。

 橋本首相は、官僚の力をそぐため、橋本行革を実施。大蔵省が財務省と金融庁に分離したのがこの時である。これが小泉政権時代に施行。小泉の発言力の基盤はここにあった。

 96年12月、ペルー日本大使館人質事件

 97年の国会では、普天間基地の移転先問題が発生。この頃から小沢氏らとの保保連合が画策され始める。

 96年6月、橋本首相がアメリカ国債を売りたいと発言。アメリカの株価が暴落。

 96年11月、ロシアのエリツィン大統領と首脳会談

 96年11月、構造改革法を制定。赤字国債の削減スケジュールを決めた。橋本氏は緊縮財政を組んだ。同じ頃、北海道拓殖銀行の破綻などの金融機関の破綻が相次ぐ。橋本氏の金融ビックバン政策に批判が集まる。

 98年7月の参院選は、アジア通貨危機や金融破綻などの不況かで実施。自民党は敗北した。

異例の自社さ政権、村山首相

河野総裁

 橋本首相の前の総裁は、河野洋平氏であった。21年総裁選挙で立候補が予測される河野太郎の父である。選挙区は神奈川県である。もともとは中曽根派(二階派)であった。70年代に自民党を離党して新自由クラブを結党。90年代に自民党に合流。中曽根派ではなく、宮沢派(岸田派)に所属。宮沢政権に尽力した。宮沢内閣では、官房長官を務めた。

異例の自社さ連立政権

 94年6月、河野総裁は異次元の連立政権を成立させた。国民福祉税構想で離脱した社会党と連立を組んだのである。その見返りに提示したのが、首相の座であった。

自衛隊と社会党

 95年は、大きな事件が幾つも発生した。1月に阪神大震災。3月に地下鉄サリン事件が発生した。阪神大震災では、社会党政権であるため、自衛隊への出動命令がおくれ、多くの死者を出したといわれている。

 95年8月には村山談話を発表。戦後50年で、侵略と植民地支配を謝罪した。

社会党を失った、羽田首相

 94年4月、献金スキャンダルで細川首相が退陣。羽田政権が成立した。この頃から、小沢氏らの新進党と社会党との亀裂が問題になった。

 組閣の翌日、社会党と連立離脱を表明。少数与党でスタートした。羽田政権は、6月にようやく予算を成立。しかし、政権を維持することができなかった。解散にも踏み切れず、退陣した。

非自民連立、細川首相

 93年8月、竹下派が分裂。小沢幹事長らが、社会党とともに内閣不信任案を可決。衆議院を解散した。

 国民福祉税構想

選挙管理内閣、宮沢首相

解散ができなかった、海部首相

クリーンな政治を求められ90年代は、海部首相で始まった。海部首相は河本派(のちに麻生派に合流する山東派)出身。河本派の特徴は、弱小であること、クリーンな政治家が多いことで提唱されている。

 海部首相は、政治改革を実現するために解散へ踏み切ろうとした。しかし、最大派閥の竹下派がNoを突きつける。91年1月、海部首相は退陣に追い込まれた。

 

 

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です