金権政治と政治不信
80年代、日本はバブル景気の中にあった。自民党も中曽根首相の長期政権が続いていた。
しかし、80年代後半に入ると、自民党に逆風が吹き始めた。それがリクルート事件である。これにより、自民党は逆風が吹き始め、参議院で過半数割れ、ねじれ国会の時代に入っていく。
クリーンな政治家、海部首相
三木・河本派
海部首相は、愛知を基盤にした政治家である。少数派閥の三木・河本派閥に所属。なお、三木・河本派は、後の山東派となり、麻生派に合流した。
クリーンな政治家
参院選の敗北で宇野政権は退陣。98年総裁選が行われた。当時の有力政治家は次の3人である。宮沢派(元鈴木派で、現在の岸田派)の宮澤喜一氏。宮澤氏は後に首相になる。安倍派(元三塚派で、現在の細田派)の安倍晋太郎氏。安倍氏は、安倍首相の父である。渡辺派(元中曽根派で、のちの二階派)の渡辺美智雄氏である。しかし、彼らはリクルート事件の関与で出馬を見合わせた。そのため、次の次の首相を目指して動いていた。
そこで、竹下元首相が指名したのは、河本派の海部首相であった。これは、田中首相が退陣した際に、三木首相を指名したのに近い。
総選挙では、海部氏のほかに、二階堂派(旧田中派で、現在は存在しない)の林氏と、のちに都知事になる無派閥の石原慎太郎氏が出馬した。海部氏は、河本派のほかに主要派閥の竹下派と安倍派が支持し勝利した。ちなみに、林氏は宮澤派の支援を得ていた。石原氏は、安倍派を除名された亀井氏らの支援を受けた。
ねじれ国会
首班指名選挙では、衆院では、海部総裁が選出された。しかし、参院では、社会党の土井委員長が選出された。ここではじめて衆議院の優越が適用。衆院で選出された海部総裁が首相になった。
しかし、法律制定では衆議院の優越は使えない。このように、参議院で過半数を確保していない状態をねじれ国会という。海部首相は社会党などの野党に配慮した政治を行う必要になった。
竹下元首相 VS YKK
海部首相は、実質竹下元首相の傀儡政権であった。海部政権が誕生すると、小沢幹事長が組閣名簿を作成したといわれている。
重要な政策は、竹下派の竹下元首相、金丸氏、小沢幹事長に相談した。この3人は、金竹小(こんちくしょう)と呼ばれた。
一方で、反竹下派の発言力も高まった。安倍派(現在の細田派)の小泉氏、宮澤派(現在の岸田派)の加藤氏と中曽根派の山崎氏である。彼らは、イニシャルをとってYKKと呼ばれた。
竹下派とYKKの戦いは90年代に激化。最終的にはYKKが勝利。2001年の小泉政権につながる。
女性問題で退陣、宇野首相
滋賀の中曽根派の政治家
宇野首相は、関西の滋賀県選出の国会議員である。県議会議員を経て、国政へ進出した。国政では、中曽根派の議員で活躍した。
リクルート事件で竹下首相が退陣
89年4月、リクルート事件で竹下首相が退陣。有力政治家はリクルート疑惑で身動きが取れなかった。多くの政治家に首相を打診したが、低支持率で選挙に勝てる自信がなく、ほとんどが辞退。サミット直前ということもあり、外相で中小派閥の中曽根派の宇野首相が誕生した。
サミットと天安門事件
6月、中国で天安門事件が発生。西側諸国は中国に対して経済制裁を行った。宇野首相も、竹下政権時に決定した中国への資金提供を凍結した。
サミットでは、三塚外相が中国を孤立させないとほかの西側諸国と距離を置いた。
中曽根元首相や竹下前首相、鈴木元首相が対中制裁に否定的な立場をとった。この背景には、牛肉オレンジ自由化問題があった。
女性スキャンダルと男女雇用機会均等法
宇野首相は、サミット直後に参院選を控えていた。当時の自民党はリクルート事件で支持率は低く、参院選は難航が予測された。
そのような中、就任直後の宇野首相に女性スキャンダルが襲った。
当時の日本は、85年に男女雇用機会均等法が成立。女性の社会進出が重要視された。最大野党の社会党では、女性の土井たか子が党首に。参院選では多くの女性議員を立候補させた。
参院選で自民党が過半数割れ
リクルート事件や女性スキャンダルで、自民党は大敗。
7月の参院選では、マドンナ旋風。土井たか子社会党の躍進で過半数割れを起こす。自民党が参院で単独過半数を回復するのは2012年の安倍政権の時代になる。
当然、宇野首相は退陣した。
リクルート事件と竹下首相
Daigoのおじいちゃん
竹下首相は、島根県の英語教師であった。その後、県議を経て国政へ進出した。田中派の議員として活躍した。
ちなみに、現在の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。
余談だが、石破氏は隣の鳥取県が地盤。安倍元首相は隣の山口県が地盤である。
田中元首相、倒れる
84年、田中元首相は二階堂擁立構想を握りつぶし、中曽根首相を再選させた。
翌85年2月、田中元首相は脳梗塞で倒れた。ここから政治は転換期に入っていく。
任期延長
86年7月、中曽根首相は死んだふり解散で衆議院と参議院の同日選挙を実施。自民党は大勝した。
これは、ハイテク景気が寄与した。
86年9月、中曽根首相は任期満了。当時の自民党の規定では、総裁の任期は2期4年であった。しかし、直前の自民党の大勝を受け、特例で1年延長された。
竹下派の旗揚げ
87年5月、田中派の二階堂氏が総裁選への出馬を決めた。このとき、竹下氏は、これに反発。多くの議員を引き連れて、田中派を離脱。当時の最大派閥である竹下派を結成した。
ニューリーダー
次期総裁は、中曽根首相にゆだねられた。当時の有力政治家は以下のとおりである。
竹下氏、旧田中派(現在の竹下派)のトップ
安倍氏、安倍元首相の父。旧福田派(現在の細田派)のトップ
宮澤氏、旧大平派のトップ
ちなみに、残りの派閥は、当時の首相の中曽根派と三木派を継承した河本派がある。
その中で、中曽根首相は竹下氏を後継者に指名した。
昭和天皇崩御
竹下首相の時代、日本はバブル経済の真っただ中にあった。
そのような中、悪夢の89年が始まった。1月昭和天皇が崩御。浮かれ気分の日本は自粛ムードに入った。
ちなみに元号を発表したのは、当時の官房長官である小渕氏である。
消費税導入
4月、消費税が導入。3%でスタートした。これにより、国民の不満は高まった。
政治家の経済政策を見るポイントは、緊縮財政かばらまき政策課である。緊縮財政政策とは、増税を行って財政の健全化を図る政策である。一方で、ばらまき政策とは、国債を発行して、財政支出を拡大し、景気を良くして税収を増やし財政を健全化しようとする政策である。
牛肉オレンジ自由化
80年代、日本は日米貿易摩擦が問題化された。
竹下首相は、農産物の貿易自由化を突きつけられた。竹下首相は米の自由化を阻止したが、かわりに牛肉とオレンジの輸入を認めた。
自民党の支持基盤は、農村に集中していた。牛肉オレンジ自由化で自民党は農家の大きな反発を受けた。
この貿易摩擦から、自民党はアメリカと対抗できる力を持とうとした。そこで目を付けたのが中国であった。
リクルート事件で退陣
消費税が始まった4月、大きな金権スキャンダルが発生した。リクルート事件である。
7月に参院選を控えていたため、竹下首相は退陣した。
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