今回から、4回にわたり、各候補の歴史を見ていきます。初回は野田候補を見ていきます。野田候補と
20年代
初出馬
野田氏は、無派閥の議員である。そのため、何度も総裁選を出馬しようとしたが、20人の推薦人が集まらず断念した。
しかし、今回は二階派が推薦人を提供。出馬が可能になった。
二階おろし
01年、自民党総裁選が始まると、岸田氏が出馬表明。ここで、岸田氏は二階幹事長に先制攻撃を仕掛けた。公約の1つに自民党役員の任期制限を付けた。これが二階おろしの始まりである。
若手議員や世論はこれを支持した。
若手議員の支持が多い菅首相も、これを無視できなかった。そのため、菅首相も二階幹事長の再任を否定した。二階氏は、これを容認する一方で、後継候補を提供しなかった。
敗色濃厚の衆院選が控えているため、幹事長のなり手がなく、菅首相は総裁選の出馬を断念せざるを得なくなった。
一方、二階幹事長も迷走した。有力対抗馬の河野氏に接近したが、河野氏はこれを拒否。次に向かったのが石破氏であったが、不出馬で河野氏支持へ回った。
結果、野田氏の出馬を支援することになった。
狂ったシナリオ
二階幹事長と菅政権が想定していたシナリオは以下のとおりである。
春には、コロナが終息。夏の東京オリンピックの成功で衆院選に勝利。無投票で総裁選を再選。
しかし、デルタ株が流行で、緊急事態宣言の再発令。東京オリンピックも無観客で開催。観光客もほとんど来ず、多くの批判を浴びた。そのため、解散カードを切れず、先に総裁選を迎えることになった。
菅政権
20年、安倍首相が体調不良で辞任。安倍首相や官邸は、岸田氏へ禅譲で進めていた。
しかし、二階幹事長がここで仕掛けた。菅官房長官を担ぎ上げたのである。これにより、菅官房長官の流れができ、安倍首相らもこれに追随せざるを得なかった。
岸田氏は、これに激怒。21年総裁選の二階おろしにつながる。
10年代
出馬断念の歴史
12年、安倍政権が成立。野田氏は自民党総務会長に就任した。この時、高市氏も政調会長に就任している。
15年、リベラル派の代表として総裁選に出馬を検討。しかし、推薦人が集まらずに断念。
17年7月、安倍自民党は都議選で都民ファーストの会で大敗。内閣改造を実施。総務大臣は、タカ派色が強い高市氏から、野田氏に変更した。10月、タカ派色の強い小池氏の希望の党に勝利した。
18年総裁選、再び野田氏が出馬に向けて動いた。しかし、また推薦人が集まらずに断念した。
二階派に成立
09年、自民党が大敗。伊吹派は、壊滅状態の二階グループを吸収した。12年衆院選で自民党は与党に復帰。伊吹会長が衆議院議長に就任。二階氏が後継会長に就任。14年、野田氏の後継で二階氏が自民党総務会長に就任。16年、二階氏が自民党幹事長に就任。現在に至る。
弱きもののための政治
野田氏は、
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