神奈川県
河野太郎氏の地盤は、神奈川県西部である。サザンビーチで有名な茅ケ崎市があるエリアの選挙区である。
この選挙区には、別荘地で有名な大磯がある。80年代に芸能人水泳大会で有名になった大磯ロングビーチがあるところである。戦後、ここには吉田茂元首相が晩年を過ごした邸宅がある。その孫が、現在の派閥の会長である麻生太郎氏である。
神奈川県選出の議員には、このほかに横浜の菅首相。横須賀の小泉進次郎氏がいる。
00年代
ワクチン担当大臣 河野候補
河野氏は、菅政権で行革大臣に就任した。行革110番の設置を菅首相から指示されると速やかに実行した。
21年、田村厚生労働大臣がワクチンまで手に回らなくなると、ワクチン担当大臣を兼任。薬事法の規制を次々緩和しワクチン接種を進めた。
菅首相
20年に入ると、官邸と菅官房長官の関係が悪化した。重要な決定が菅官房長官のいないとことで決まるようになった。この不仲は野党が国会で追及するほどであった。
ここに目を付けたのが二階幹事長である。当時、安倍首相は、甘利氏を次期官房長官に考えていた。甘利氏は、山崎派に所属していたが、12年の総裁選で旧山崎派の石原氏が出馬するも、菅氏や麻生氏らとともに安倍政権の樹立に尽力した人物である。
二階氏は、令和おじさんとして人気の高い菅官房長官に目を付けたのである。
9月、森友加計問題で安倍首相は体調を崩し退陣。二階幹事長は動き出した。菅官房長官が出馬を発表。各派閥の若手議員もこれに追随。主流の細田派、麻生派と竹下派もこれに追随。菅政権が成立した。
しかし、コロナ問題はデルタ株によって長期化。ワクチン供給も遅れ支持率が低下した。
21年総裁選をひかえて、若手議員を中心に反発。小泉環境大臣が説得に当たるも失敗。総裁選不出馬を表明し、退陣することになった。
環境大臣 小泉進次郎氏
19年8月、オリンピック招致で活躍した滝川クリステル氏と結婚。翌9月、環境大臣に就任した。20年1月、第1子が誕生。20年9月の総裁選では、菅官房長官を支援した。
10年代
外務大臣 河野太郎氏
河野氏は、10年幹事長代理に就任。シャドウキャビネットで行革担当大臣になる。12年総裁選では、麻生氏とともに安倍元首相を支持。15年、安倍政権で行革大臣に就任。
17年、岸田候補が政調会長に就任したのにともない、外務大臣に就任。ハイペースで外国へ訪問するとともに、韓国に対しては断固とした態度をとった。
19年、防衛大辞任就任。20年、菅政権が成立すると行革大臣になった。
最強の官房長官 菅氏
野党時代、菅氏は無派閥の議員で会った。12年総裁選。安倍元首相の擁立に尽力した。安倍元首相が所属する町村派は町村会長で一本化されていた。菅氏は、安倍元首相を説得。さらに、麻生派を味方につけて安倍政権を復活させた。
安倍政権が成立すると、菅氏は官房長官に就任した。菅官房長官は、官邸主導を進めるために内閣人事局を設置。この官邸主導はのちに、忖度として森友加計問題につながる。ちなみに初代局長は。現在の官房長官の加藤氏である。
19年4月、官房長官として新元号「令和」を発表。これにより、菅官房長官は若者の人気を集める。当時官邸は、岸田政調会長への禅譲を進めていた。そのため、官邸と菅官房長官の間に亀裂が生じた。
青年局長 小泉氏
小泉氏は09年に初当選。逆風選挙で同期当選は2人であった。そのため、多くの役職を兼務した。11年、青年局長に就任。12年の衆議院選挙では、各地で応援演説を行い当選させた。そのため、多くの若手議員は、小泉氏に恩を感じ出ている。15年、自民党農林部局長に就任。農協(JA)の改革を行った。
00年代
09年 政権交代選挙
08年、河野候補の師である麻生氏は首相に就任。早期に解散し長期政権を目指そうとした。しかし、予定が狂った。9月のリーマンショックである。これにより。不況が始まった。自民党の支持率はさらに低下。解散ができなくなった。
09年7月、都議選に敗北。古賀氏は責任を取り、選挙対策委員長を辞任。逆風の衆院選を控え後任人事は難航。結果、空位のまま、選挙対策副委員長であった菅氏が代行した。
09年衆議院選挙で、小泉元首相が政界を引退。小泉進次郎の出馬が決まった。このとき、時の首相の麻生氏は「進次郎が出馬するの、あの人はお父さんと違って普通の人だよ」と語った。
この衆院選で、小泉氏は初当選。同期当選は2人しかいなかった。自民党も議席を半減。野党になった。
その後の総裁選。河野太郎氏が出馬。第一派閥の谷垣派の谷垣氏が総裁に就いた。
07年総裁選 反麻生同盟
安倍政権は、07年の参院選挙に敗北。選挙対策委員長に横浜で選挙に強い菅氏が就任した。
07年、安倍首相は辞任。自民党総裁選挙が始まった。古賀氏と麻生氏は仲が悪かった。麻生政権の成立を嫌った。そこで、古賀氏は谷垣派と町田派(現在の細田派)と組んで、町村派の福田氏を擁立。福田氏は、麻生氏を破り、総裁になった。
この時、菅氏は、古賀派に所属していたが、離脱して麻生支持回った。以後、菅氏は無派閥であるが麻生派と良好な関係を築いている。
ポストの不足から、選挙管理委員長というポストを新設。古賀氏を就任した。副委員長には、元選挙対策本部長の菅氏が就いた。
古賀氏と菅氏は、たたき上げの政治家である。当時批判の高かった世襲について制限を検討した。しかし、党内の世襲議員たちの反発にあい、実行できなかった。
この頃、小泉進次郎氏は、06年にコロンビア大学を卒業。アメリカのシンクタンクの研究員になる。07年、小泉元首相は、進次郎氏を帰国させ、自身の私設秘書に就けた。そして、08年に、小泉元首相は引退を表明した。
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