17世紀後半のドイツ
17世紀後半の国際情勢
48年のウェストファリア条約で、オランダとスイスが正式に独立を果たした。イギリスは、市民革命(清教徒革命と名誉革命)で混乱。市民革命の間でオランダと戦争を行っていた。フランスは、ブルボン朝の絶頂期。太陽王ルイ14世の時代を迎える。
17世紀後半の神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国は、10世紀に成立した中欧の国である。1人の皇帝と多くの諸侯国で構成される。14世紀以降、オーストリアを統治していたハプスブルグ家が皇帝の地位を継承していた。
しかし、48年のウェストファリア条約で皇帝の権限が大幅に縮小。皇帝の地位は名ばかりのものとなった。
17世紀後半のオーストリア
オーストリアは、神聖ローマ皇帝の家系、オーストリア=ハプスブルク家が統治していた。
当時の皇帝は、レオポルト1世であった。宗教面では、ローマ=カトリックを信仰。
17世紀後半のプロイセン
プロイセンは、神聖ローマ帝国北東部の1諸侯国である。その始まりは、13世紀に東方植民を行ったドイツ騎士団である。その騎士団長を務めていたのが、ホーエンツォレルン家である。16世紀にポーランドの保護のもとにプロイセン公国となった。
60年、ポーランドから完全に独立した。宗教ではルター派(プロテスタント)を信仰した。
太陽王ルイ14世の侵攻
ルイ14世
フランスでは、1643年に太陽王ルイ14世が即位。フランス=ブルボン朝全盛期を迎える。61年に宰相マザランが亡くなると、宰相を置かず独自に政治を行うようになった(親政)。
イギリスとの対立
ルイ14世は、貿易に力を入れた。そのメインの国は、アメリカとインドである。アメリカには、ルイジアナという地名で名を残している。名誉革命でイギリスとオランダの同君連合が成立すると、アメリカとインドの交易権をめぐり、イギリスと対立していく。
国土の拡張
ルイ14世は、国土の拡張に努めた。特に北東部のオランダ方面への侵攻を進めた。
67年、ベルギーをめぐり、スペイン=ハプスブルク家と戦争。(南ネーデルラント戦争)。72年には、英蘭戦争に介入。同じカトリック教徒のイギリス王室と結び、第3次英蘭戦争に入る(オランダ侵略戦争)。77年、イギリスが戦線離脱。イギリスの王女メアリとオランダ国王ウィレム3世が結婚した。翌78年、フランスもオランダと講和した。
ファルツ戦争
88年9月、神聖ローマ帝国の諸侯国ファルツで王位継承問題が発生。ルイ14世は、ファルツの王位継承権を主張して、ファルツへ侵攻した。これに対抗したのがオランダのウィレム1世である。オランダは、スウェーデンなどのプロテスタント国だけでなく、スペインやオーストリアなどのカトリック教国とも同盟を結び、ルイ14世包囲網を完成した。これをアウクスブルク同盟という。
ファルツは、神聖ローマ帝国の1諸侯国である。ドイツ西部の国で北はベルギー(南ネーデルラント)、南はスイス、西はライン川が流れ、その対岸がフランスである。14世紀の金印勅書で七選帝侯国の1つになる。フランスとドイツの係争地になるアルザス=ロレーヌもこの地にある。このエリアはラインラントともよばれ、第一次世界大戦後に非武装地帯とされた。
この時、イギリスでは名誉革命の真っただ中にあった。オランダのウィレム1世の妻メアリはイギリス女王になり、オランダとイギリスの同君連合が成立した。フランスのルイ14世は、ジェームズ2世を保護し、反革命派を支援した。
オーストリアは、オスマン帝国との交戦中でもあった。そのため、ファルツに多くの軍隊を送ることができなかった。
ファルツ戦争は、海外にも影響を及ぼした。アメリカとインドをめぐり第二次英仏百年戦争が勃発した。
ファルツ戦争は97年に講和した。講和条件は以下のとおりである。
- ルイ14世は、金銭と引き替えにファルツの王位継承権を放棄する。
- フランスは、オーストリア=ハプスブルク家から、アルザスを獲得する。
- フランスは、スペイン=ハプスブルク家より、中米ハイチを獲得する。
- ルイ14世は、名誉革命の結果(ウィレム3世のイギリス国王即位)を承認する。
それまで、ルイ14世は全戦全勝であったが、この戦争は引き分けに近い結果に終わった。これにより、ルイ14世の権威に陰りが見え始めた。
スペイン継承戦争
99年、今度はスペイン=ハプスブルク家で王位継承問題が発生。ルイ14世の孫とレオポルト1世の息子の間でスペイン王の地位をめぐる戦争が勃発した。
第2次ウィーン包囲
カルロビッツ条約
17世紀後半、オーストリアは、オスマン帝国と戦争下にあった。99年にオスマン帝国と講和。オーストリアは、オスマン帝国からハンがリーを獲得した。
これにより、オスマン帝国は、領土縮小の道を進み始める。
一方、オーストリアは中欧から東欧にまたがる多民族国家へと変貌していく。
ハンガリー
ハンガリーはアジア系騎馬民族のマジャール人が建国した国である。9世紀末にヨーロッパに移住。10世紀末に王国になった。16世紀にオスマン帝国の支配下に入っていた。
第二次ウィーン包囲
83年、オスマン帝国はウィーン包囲を行った。フランスのルイ14世は、事前にオスマン帝国に対して中立を約束していた。背景には、5年後のファルツ戦争の前にオーストリアを弱らせたい思惑があったと思わる。国はウィーン包囲を行った。フランスのルイ14世は、事前にオスマン帝国に対して中立を約束していた。背景には、5年後のファルツ戦争の前にオーストリアを弱らせたい思惑があったと思わる。
バロック美術
17世紀後半は、三十年戦争が終結した平和な時代の始まりでもあった。ウィーンやパリに多くの芸術家が集まった。当時の文化はバロック美術と呼ばれた。
バロックとは、「ゆがんだ真珠」を意味した。
ルイ14世は、バロック様式のヴェルサイユ宮殿を建築した。