概要
中世の中国編。最終回は、モンゴル大帝国を見ていきます。13世紀の出来事は、モンゴルの歴史に紐づけることで年号が覚えられます。
さて、中国の歴史を再度振り返りましょう。
- 古代 中国文明 → 殷・周王朝 → 春秋戦国の戦乱期
→ 漢王朝 → 魏晋南北朝の戦乱期 - 中世 隋・唐王朝 → 五代十国の戦乱期
→ 宋王朝 → 元王朝 → 明王朝 - 近代 清王朝
- 現代 辛亥革命 → 中華民国 → 中華人民共和国
前史
12世紀までの中国
12世紀までのモンゴル
9世紀、トルコ系のキルギスによって、ウイグル人が滅亡。その一部が中央アジアでトルキスタンを建国した。ウイグル人のいなくなったモンゴルでは、モンゴル系の契丹族が支配する。
12世紀初頭、契丹族は、女真族の金王朝によって滅亡。モンゴル人は金王朝の支配をうけるようになる。なお、契丹族の一部は中央アジアへ逃れ、西遼を建国。
チンギスハンのモンゴル帝国
初代皇帝チンギス=ハン
13世紀初頭、テムジンはモンゴルのハン(部族長)に就いた。ここからテムジンはチンギスハンと名乗る。なお部族長を決める会議のことをクリルタイという。
チンギスハンは、分裂状態のモンゴルを統一した(大モンゴル国)。チンギスハンは、千戸制を導入し、軍事・行政組織とした。
チンギスハンは、中国ではなく中央アジアへ侵攻した。ナイマン(東トルキスタン)、ホラズム=シャー(西トルキスタン)、西夏(黄河上流)を征服した。
2代目オゴタイ
2代皇帝、オゴタイが即位。
中国北部の金王朝を征服。
甥のバトゥをヨーロッパ遠征に向かわせた。ロシア・ハンガリーを征服。ワールシュタットの戦いでヨーロッパ連合軍と戦う。12世紀半ばのオゴタイの死去でヨーロッパ遠征は終了する。
4代皇帝 モンケ=ハン
3代皇帝は病弱ですぐになくなり、4代皇帝モンケ=ハンが即位。
フビライを中心とした南宋(中国南部)遠征軍を結成。南宋は滅ぼせなかったが、雲南の大理国を征服した。
また、フラグを中心とした西アジア遠征軍を結成。バグダードを征服。アッバース朝のカリフを処刑した。エジプトへも侵攻したがマムルーク朝に撃退された。
フビライと元王朝
4ハン国
5代皇帝にフビライが即位。しかし、多くの親族がこれに反発。モンゴル帝国は分裂した。
- イル=ハン国 フビライが西アジアに建国。都はイラクのタブリース
- キプチャク=ハン国 バトゥがロシアに建国。都はサライ
- チャガタイ=ハン国 中央アジアに建国。都はアルマリク
ハイドゥの乱
フビライは、ハンに即位した際に。弟のアリクブケを支持する勢力もあった。フビライはアリクブケ軍を破りハンに即位した。
13世紀半ば。チャガタイ=ハン国の王でオゴタイ=ハンの孫のハイドゥの乱がおこる。この反乱は14世紀初頭に鎮圧された。
中国統一
フビライは、アリクブケとの戦いに勝利すると、都をカラコロムから上都(開平府)と中都(燕京)へ遷都。その後、大都を建設した。ここは隋王朝の大運河の北端である。この都が現在の北京である。
フビライは。漢風政策をとり、国号を元とした。南宋を滅ぼし、中国を統一した。
海外遠征
フビライは、東アジアと東南アジアへ侵攻した。チベット(吐蕃)を征服。朝鮮半島の高麗を属国。しかし、属国反対派の反乱(三別抄の乱)が起こる。日本(鎌倉幕府)にも遠征するがこれは神風によって失敗。ベトナムの陳朝も元軍を撃退した。ミャンマーでは、パガン朝が滅亡した。これに伴い、タイ人がスコータイ朝を建国した。一方、ジャワ島(インドネシア)では、元軍を撃退。マジャパヒト王国が成立した。
階級社会
元時代の中国では、漢人が冷遇された。(モンゴル至上主義)。人種によって4段階の階級が成立した。
- モンゴル人 主要な官僚はモンゴル人で構成された。
- 色目人 重要な役職はペルシャ人などの中央アジアや西アジア出身者で構成された。
- 漢人 華北(元 金王朝)の漢人や女真族、契丹人がこの階級に入った。
- 南人 江南(元南宋)の漢人
科挙は停止した。
交通交易の発達
駅伝制(ジャムチ)が整備された。これにより陸上交易が発達した。ムスリム商人の隊商貿易がアジアとヨーロッパを結んだ。
一方、海上貿易も発達した。杭州、泉州、広州などの港湾都市が繫栄。隋王朝の大運河を改修。長江下流域と大都(北京)を結んだ。
経済
貨幣は、銅銭を鋳造せず、宋銭と金銀で取引が行われた。
一方で主要通貨は紙幣の交紗であった。中国では貨幣が必要亡くなりその多くが日本へ流れた。これにより、鎌倉・室町時代になると貨幣経済が浸透していった。
宋王朝の形勢戸は、科挙の廃止により政治の中枢から追われた。しかし、大土地所有は続いた。そのため、経済力は維持することができた。
文化
形勢戸が政治の中枢から外れたことで、エリート層の文化ではなくではなく庶民文化が発展した。戯曲(元曲)が流行した。
ヨーロッパとモンゴル帝国
13世紀後半、ヨーロッパの人々はモンゴル帝国に使者を派遣した。当時のヨーロッパは十字軍遠征の真っただ中であった。
最初に使者を派遣したのは、ローマ教皇である。プラノ=カルピニを派遣した。
次に、使者を派遣したのは、フランスのルイ9世である。ルイ9世は最期の十字軍を指揮した国王である。彼は、ルブルックを派遣した。
さらに、ヴェネツィア商人のマルコ=ポーロは、大都でフビライに仕えた。帰国後、マルコ=ポーロは、「世界の記述」(東方見聞録)を著した。
東西交流
モンゴル帝国では、色目人を中心にイスラム教を信仰した。キプチャク=ハン国やイル=ハン国は、イスラム教を保護し、西アジアの人々の支持を集めようとした。
14世紀のモンゴル帝国
14世紀は、天災が多い世紀であった。ヨーロッパでペストの大流行が起きたのもこの世紀である。
この天災によってモンゴル帝国は衰退に向かう。
キプチャクハン国(ロシア)では、モスクワ大公国が台頭。
チャガタイ=ハン国(中央アジア)とイル=ハン国(西アジア)は、チャガタイ=ハン国の部族闘争で頭角を現したティムールが巨大王朝を建国した。
最後に、元王朝である。元王朝は、放漫財政によって財政難になる。交紗(紙幣)の乱発や専売の強化を始める。これにより、中国はインフレ。農民反乱(紅巾の乱)によって、モンゴルへ退いた。この王朝が北元といわれる。一方、中国には明王朝が成立した。