1810年代のイタリア ウィーン会議とサルディーニャ王国

前回の復習 1820年代のイタリア

 1820年代、イタリアは分裂状態にあった。このイタリアを統一するために最初に動き出したのが秘密結社カルボナリであった。

 今回は、イタリア統一前の秩序を作ったウィーン会議をもとに18世紀以前のイタリアの様子を見ていきます。

1810年代の国際情勢

スペイン=ブルボン家

ナポレオンの統治

 07年、ナポレオンの兄ジョセフがスペイン王に即位。自由主義貴族とともに改革を断行した。フランスと同様に領主裁判権を廃止。異端審問も廃止した。12年には、カディス憲法を制定し、立憲君主制へ移行した。

スペイン独立戦争

 自由主義の改革は、反カトリックな政策も多かった。そのため、聖職者たちはゲリラ戦を展開した。多くの市民がこれを支持した。ゴヤの『1808年5月3日』はゲリラ戦に参加した市民を虐殺する様子が描かれている。

このゲリラ戦には、ポルトガルやイギリスが支援。ナポレオンを相当苦しめた。

 ロシア遠征に失敗した13年、ジョセフが退位。スペイン=ブルボン家は復活した。

ウィーン会議で復古王政

 13年、スペイン=ブルボン家が復活。15年のウィーン議定書で、これを追認した。

 南イタリアでは、ナポリ王国が復活。

 北イタリア(ヴェネツィア、ロンバルディア)に、ロンバルト=ヴェネト王国が成立。オーストリア皇帝が統治した。

反動政治

 13年に復位したスペイン国王フェルディナント7世は、多数の自由主義者を逮捕。14年に、カディス憲法を停止。専制君主制へ戻る。さらに、領主裁判権や異端審問を復活させた。

ラテンアメリカの独立

 ラテンアメリカでは、04年のハイチの独立をきっかけに各地で独立運動が展開されていた。その中心は、ラテンアメリカに入植した白人の子孫たちであった。彼らはクリオーリョと呼ばれた。

 スペイン国王フェルディナント7世は、この独立運動を鎮圧するために海軍をラテンアメリカに派遣した。

立憲革命

 このような中、ラテンアメリカへ向う海軍が反乱を起こした。国王フェルディナント7世は、この反乱に屈服。カディス憲法の復活と自由主義政府の成立を容認した。これがスペイン立憲革命である。

五国同盟の崩壊

 フェルディナント7世は、この状況を打開するためにフランス=ブルボン家に支援を求めた。フランス=ブルボン家はこれに応じ、軍隊を派遣。23年、自由主義政府は崩壊した。

 この時、フランス=ブルボン家のルイ18世は、五国同盟を利用した。しかし、イギリスが反発。これにより、五国同盟が崩壊した。

 ちなみに、五国同盟は、ウィーン会議で成立した四国同盟が始まり。イギリスが提唱し、当時の強国であるロシア、オーストリアとプロイセンが参加した。18年、フランスが参加して五国同盟になった。

イタリアのカルボナリ革命へ

 カディス憲法は、本国のみで提要され、南イタリアの両シチリア王国では適用されなかった。そのため、カルボナリを中心に両シチリア王国での憲法を作ろうとした。これがカルボナリ革命の始まりである。

ウィーン会議

概要

 1814年、ナポレオン戦争が終結。パリが陥落した。戦後の講和条約として開催されたのがウィーン会議である。

 ウィーン会議では、フランス革命以前の状態に戻すことが前提とされた。これを正統主義という。

 余談だが、ウィーン会議の開催されたちょうど100年後に第一次世界大戦が勃発している。

サルディーニャ王国

 サルディーニャ王国は、イタリア北東部の王国で、都はトリノである。サヴォイア家が統治しており、サルディーニャ島を統治していたことからサルディーニャ王国と呼ばれた。

 17世紀初頭のユトレヒト条約で王国になった。17世紀末、ナポレオンによってフランスに併合。国王はサルディーニャ島に亡命した。

 ウィーン会議で国土を回復。さらに、貿易港ジェノヴァを獲得した。メッテルニヒ首相(オーストリア)は、サルディーニャをフランスとオーストリアの緩衝地帯にしようとした。

オーストリア=ハプスブルグ家

 オーストリア=ハプスブルグ家は、神聖ローマ皇帝を継承していた名門である。ドイツ全体だけでなく、北イタリアも支配していた。

 ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国は崩壊。北イタリアもナポレオンに奪われた。

 パリが陥落すると、オーストリアのメッテルニヒ首相がウィーン会議を招集した。

 ウィーン会議では、神聖ローマ帝国の復活はかなわず、かわりにドイツ連邦の盟主となった。

 オーストリアは、イギリスの提唱した四国同盟に参加。さらに神聖同盟に参加した。 

北イタリアは、ヴェネツィアやミラノをもつロンバルト=ヴェネト王国を建国。オーストリア=ハプスブルグ家が統治した。

このオーストリア=ハプスブルク家がイタリア統一の最大の障害であり続けた。

ローマ教皇

 中部イタリアは、8世紀のピピンの寄進以降、ローマ教皇が統治していた。

 フランス革命が勃発すると、教会財産の没収や十分の一税の廃止で革命政府とローマ教皇の関係は険悪なものになっていた。

 1801年に、ナポレオンとローマ教皇が和解。04年のナポレオンの戴冠式につながる。

 ウィーン会議でも、中部イタリアはローマ教皇領とのなった。1870年の普仏戦争でフランスが敗北するとローマ教皇領はイタリア王国に併合された。

 ただ、ロシアの提唱した神聖同盟には参加しなかった。その理由は、ロシア皇帝の侵攻している東方正教会との対立からであった。なお、この神聖同盟には、イギリス(イギリス正教会)とオスマン帝国(イスラーム教)も参加しなかった。

両シチリア王国とスペイン=ブルボン家

 南イタリアは、スペイン領であった。当時のスペインは、スペイン継承戦争で成立したスペイン=ブルボン家が統治していた。

 ナポレオンは、スペインを征服。スペインでは激しい抵抗運動が起こった。

 ウィーン会議で、スペイン=ブルボン家が復活。南イタリアもスペイン=ブルボン家が統治した。

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