1860年代のイタリア ローマとヴェネツィア併合

前回の復習 1910年代のイタリア

 1910年代は、ムッソリーニの時代。エチオピア侵攻で国際的に孤立。ファシズム国家への道を進み始める。

 さて、1920年代のイタリアでは、ムッソリーニの独裁政権の成立過程を見ていきます。

ローマ教皇領占領

概要

 71年、イタリア王国は、ローマ教皇領であった。ローマを占領。中部イタリアを完全に統一した。

ローマ教皇領とは

 ローマ教皇領は、8世紀のピピンの寄進で成立した。以後18世紀まで中部イタリアはローマ教皇であった。しかし、19世紀に入るとナポレオンが教皇領を一時併合。ウィーン会議で返還された。

 その後、フランスがローマ教皇領の防衛を行った。

 19世紀半ばのイタリア統一運動の過程でローマ教皇領が次第に縮小。

 70年に、普仏戦争が勃発すると、フランス軍がローマを撤退。この隙にイタリア王国はローマを併合した。

普仏戦争

 60年代、フランスはナポレオン3世の時代である。この時代、プロイセンのビスマルク宰相が鉄血政策でドイツ統一のための戦争を繰り返していた。

 その過程で起きたのが70年の普仏戦争である。この戦争でプロイセンがフランスに勝利。プロイセンはドイツの建国を宣言。一方、フランスはナポレオン3世が退位。パリ=コミューンへ向う。

イタリア王国の首都の変遷

 61年建国当初、イタリア王国は、サルディーニャ王国の首都のトリノに置かれた。イタリア北西部でフランスにほど近いところである。

 65年に中部イタリアのフィレンツェに遷都。フィレンツェはイタリア半島西岸でローマの少し北に当たる都市である。

 そして、71年にローマを併合すると、イタリア国王はローマへ入城した。

ヴェネツィア併合

普墺戦争

 66年に普墺戦争が勃発すると、イタリア王国はプロイセンを支援。プロイセンが普墺戦争に勝利すると、イタリアはヴェネツィアを併合。北イタリアを統一した。

 普墺戦争とは、60年代のドイツの統一政策の過程で行われた一連の戦争の一つである。プロイセン王国がオーストリア王国に勝利した。

ヴェネツィアとは

地理

 ヴェネツィアは、イタリア北東部の地域である。アドリア海の北端に近く。オーストリアやユーゴスラビア(ビザンツ帝国、オスマン帝国)に近い。

歴史

 伝説上、建国は5世紀初頭である。6世紀半ばにランゴバルド人が侵入すると、周辺住民が難を逃れるためにアドリア海に近い島に逃げ込んで現在の形が形成された。

 11世紀ごろから、東方交易(エジプトとの交易)で栄える。13世紀初頭の第四回十字軍でラテン帝国を建国。14世紀末、ジェノバ共和国に勝利し、東方貿易を独占した。

 しかし、16世紀に、オスマン帝国がエジプトを支配すると、東方貿易は衰退。とくに、プレヴェザの海戦の敗戦で衰退した。

19世紀前半

 18世紀末にナポレオンがイタリアへ侵攻。これにより、北イタリアはオーストリアとフランスに分割。ヴェネツィアはオーストリアの支配下に入った。

 ウィーン議定書で、ヴェネツィアは、ミラノとともにロンバルト=ヴェネト王国になったが、オーストリアの傀儡政権のままであった。

オーストリア=ハプスブルク家

 スペインは、31年の地方選挙で共和政支持派が大勝。これにより、国王は退位し国外へ逃亡した。スペイン=ブルボン朝が終わり、第二共和政へ移行した。

 32年、世界恐慌が深刻化していった。そのような中、33年に総選挙。共和派が大敗した。旧王党派政権が成立。共和政支持者や社会主義者の弾圧が行われた。

 34年、社会主義者が反乱。王党派政権は、フランコ将軍らを使い、これを鎮圧した。この部隊は植民地のモロッコ人を中飛であった。しかし、あまりに非道な弾圧で王党派政権は支持を失った。

 36年1月、総選挙で王党派政権が敗北。社会主義者を中心とした人民戦線内閣が発足した。

 同年7月、フランコ将軍はクーデターを決行した。ドイツとイタリアはこの反乱軍に援軍を送った。人民戦線内閣はヨーロッパ各国に援軍を求めた。ソ連は援軍を送ったが、イギリス・フランスは援軍を送らなかった。そのため、スペイン内戦はソ連とドイツの代理戦争となった。

 では、なぜイギリスとフランスは人民戦線内閣に援軍を送らなかったのであろうか。イギリスは、保守党政権がブロック経済を利用して世界恐慌を脱却しつつあった。そのため、ソ連の支援に消極的であった。一方で、フランスはスペインと同じ人民戦線内閣であったが、世論が反社会主義であったため援軍を送ることができなかった。

 38年9月、ミュンヘン会談でスターリンが英仏に反発。スペインから軍隊をひきあげた。そして、39年1月、スペイン内戦が終結。人民戦線内閣の第二共和政は崩壊。フランコ政権が成立した。

未回収のイタリア

 イタリアとオーストリアは、イタリア北西部をめぐり、幾度となく戦争を行った。初回は48年革命のときである。この時、イタリアはオーストリアへ侵攻が失敗した。次が、59年のイタリア統一戦争である。この時、イタリア北西部の大部分がイタリアになったが、ヴェネツィアとトリエステはオーストリア領として残った。

 この戦争で、ヴェネツィアは併合できたが、トリエステの併合はできなかった。トリエステが併合できたのは1910年代の第一次世界大戦時である。

イタリア王国の成立

イタリア王国の成立

61年、サルディーニャ王国は、制限選挙で黒海を開催。サルディーニャ国王であったヴィットリオ=エマヌエール2世を国王としたイタリア王国を建国した。初代首相はカブールが務めた。

ガリバルディの南イタリア献上

 60年、共和主義者ガリバルディによって、スペインブルボン家の支配下にあった南イタリア(両シチリア王国)が独立。ガリバルディは、その南イタリアをサルディーニャ王国に献上した。