(前史)18世紀までの清王朝
東アジアでは17世紀に清王朝が成立。17世紀の半ばには康熙帝、雍正帝、乾隆帝の全盛期を迎える。
この時代で、領土は広がり、人口は3億人に達した。
乾隆帝は、18世紀末に亡くなる。今回のストーリーは、乾隆帝が亡くなった後の19世紀の清王朝を見ていきます。
19世紀前半の中国
白蓮教徒の乱
清王朝の終わりは、中国内陸部の四川省で始まった。この地域は海から遠く、現在でも経済的に弱い地域である。
18世紀末、人口の増加で土地不足が発生。農民は困窮した。8世紀末、乾隆帝が亡くなると、四川省で白蓮教徒の乱が起こった。この農民反乱は、10年かかってようやく鎮圧された。
開国を求めるヨーロッパ諸国
ロシア
- 17世紀後半 ネルチンスク条約で国境を画定
- 18世紀前半 キャフタ条約で中央アジアの国境を画定
- 18世紀後半 国境付近で交易が行われるようになる。
- 1792年 エカチェリーナ2世、ラスクマンを日本に派遣
イギリス
1792年、イギリスのマカートニーを清王朝に派遣。広州以外での貿易を求めた。熱河で休養中の乾隆帝は、これを拒否した。
アヘン問題
18世紀後半、広州で最大の取引を行っていたのはイギリスであった。産業革命で景気は好調。茶の需要の増大で中国茶の輸入が増大した。中国へ銀が流入するようになっていた。
しかし、19世紀に入ると、なぜか清王朝から銀が流出するようになった。インド産アヘンの密貿易によるものである。
イギリスは、イギリス産綿布、インド産アヘン、中国産お茶の三角貿易が始まった。
アヘン戦争
林則徐のアヘン取り締まり
清王朝は、何度もアヘン取り締まり令を出した。しかし、中国南部では、役人自体がすでにアヘン中毒になっておりその効果はほとんどなかった。
39年、清王朝は林則徐を広州へ派遣。麻薬の取り締まりに当たらせた。そして、林則徐はイギリス商人のアヘンを没収・廃棄処分にした。
アヘン戦争
イギリス本国は、これに逆ギレ。翌40年、清王朝の広州に軍艦を派遣した。当時のイギリスは、エジプト=トルコ戦争が終結したばかりであった。
広州では、一進一退の攻防が続いた。イギリス軍は、矛先を変えて首都の北京に近い天津に軍艦を派遣。清王朝皇帝を脅した。清王朝皇帝は、林則徐を解任。和平派の役人を広州へ派遣。アヘン戦争は終結した。
南京条約
42年、イギリスと清王朝で南京条約が締結された。条約の中身は以下のとおりである。
- 香港島の割譲
- 上海などの沿岸部5港の開港
- 公行(輸入業者の組合)の廃止
- 賠償金の支払い
さらに、翌43年には、領事裁判権(治外法権)、協定関税制(関税自主権の喪失)、片務的最恵国待遇(清王朝がイギリスよりも有利な条約をほかの国と締結した場合、イギリスにも適用される)が追加された。
44年、アメリカ、フランスとも同様の条約を締結した。
アロー戦争
南京条約で貿易が自由されたが、思うように利益を上げることができなかった。
56年、自称イギリス船籍の中国人乗組員を海賊容疑で逮捕。これを口実に、イギリスは、フランス(ナポレオン3世)と友野に戦争を開始した。アロー戦争である。
当時、イギリスはインド大反乱の真っただ中であった。そのため、単独出兵する余裕がなく、フランス(ナポレオン3世)との共同出兵の形をとった。
英仏は、広州を占領。しかし、清王朝が降伏しなかったので、また、北京近くの天津へ兵を送った。58年、清王朝は降伏。天津条約を締結した。
北京条約
59年、清王朝は天津条約の批准を拒否。再び、英仏軍は出兵。首都北京を占領した。清王朝は、ロシアに仲介を依頼。60年、天津条約が締結された。条約の内容は以下のとおりである。
- 外国公司の北京駐在 → ヨーロッパ諸国との対等外交
- 開港地 5港→11港
- 長江流域や北京近郊の天津が含まれた。
- 付帯条項として、太平天国の乱の鎮圧後とされた。
- 香港 九龍半島南部の割譲
- キリスト教布教の自由
- アヘン貿易の公認
ロシア
58年、アロー戦争中にアイグン条約を締結。黒竜江以北を領有。
60年、北京条約の仲介の見返りに沿海州(日本海沿岸部)を割譲。ウラジオストーク港を開講。これにより、日本とロシアの対立が始まる。
ロシアは、19世紀半ばにクリミア戦争に敗北。中央アジアや東アジアに力を入れるようになる。そのような中、中央アジアでイスラム教徒が反乱。(イリ事件)。81年、中央アジアの国境が変更された。(イリ条約)
反乱の時代
太平天国の乱
アヘン戦争に敗北。民衆はますます困窮。これにより、清王朝各地で農民反乱が起こるようになる。その最大勢力が華南の太平天国である。指導者は洪秀全である。
洪秀全は、自らをキリストの弟と自称。拝上帝会という宗教結社を結成。
51年、広西で挙兵。貧困層を中心に勢力を拡大。長江流域まで勢力が拡大した。
53年、南京を占領。 天京と呼び、政府を作った。
「滅満興漢」(満州族の清王朝を滅ぼし、明王朝のような漢民族の王朝を興す(復活させる))をスローガンにした。ヨーロッパの人々も当初、太平天国を支援した。
アヘン吸引や纏足などの悪習の廃止。男女平等のための政策を実施。均田制(天朝田畝制)を復活させた。
56年、アロー戦争が勃発。
漢人官僚と外国人部隊
鎮圧には、当初清王朝の正規軍が派遣された。しかし、太平天国軍の快進撃を止めることができなかった。
しかし、太平天国軍が内部分裂。一方で、清王朝は、長江流域の漢人官僚に応援を要請。漢人官僚たちは、義勇軍を組織した。曽国藩の湘軍、李鴻章の淮軍がその一例である。これにより、形成は太平天国軍の勢いが止まった。
60年、北京条約締結。欧米諸国が清王朝側についた。
64年、太平天国は滅亡した。
洋務運動(西洋化改革①)
太平天国の乱が終結すると平和な時代(同治の中興)が訪れた。同治帝の時代であるが、母である西太后が実権を握っていた。
この時代の政治中秋は、曽国藩や李鴻章など、太平天国の乱で活躍した漢人官僚であった。
彼らは、富国強兵を目指し、西洋の技術を導入した。これを洋務運動という。中国の伝統的な道徳を維持し、西洋技術を取り入れるという「中体西用」の立場をとった。
日本(開国と明治維新)
54年、クリミア戦争の最中に、日米和親条約で開国。
58年、清王朝が天津条約を締結。日本も不平等条約である日米修好通商条約を締結。
68年、大政奉還で、明治新政府が成立。
74年、台湾出兵。
75年、ロシアと樺太千島交換条約
79年、沖縄県を設置
80年、明治新政府、国会開設の勅諭を発表。
89年、大日本帝国憲法を発布。
90年、憲法に基づいて、帝国議会を招集
清王朝の外交 朝貢体制の崩壊
60年、北京条約で、外国公使が北京駐在。
61年、外務省に当たる総理各国事務衙門を設置
70年代、台湾出兵で、沖縄(琉球王国)が日本領に
80年代、清仏戦争で、ベトナムがフランスの保護国に
朝鮮半島
朝鮮王朝
党争などによる政治的動揺がつづいていた。19世紀初頭の洪景来の乱などの反乱が続いていた。
外国では、17世紀以降は清王朝と日本の2か国に限定していた。
50年代、アロー戦争で清王朝が敗北。日本も開国した。
60年代にはいり、朝鮮王朝にも欧米諸国の開国要求がくるようになった。時の政治中枢は、大院君であった。大院君は、開国要求を拒否し、攘夷に努めた。
日朝修好条規
75年、江華島事件が発生。翌76年、朝鮮王朝は日本に領事裁判権を含む不平等な日朝修好条規をむすび、プサンなどの3港を開講した。
攘夷派 vs 改革派
朝鮮王朝は、3つの派閥に分裂した。政治の中枢は、外戚の閔氏一族である。彼らは、清王朝との関係を重視していた。それに対する勢力は2つあった。1つは、大院君を中心とした攘夷派。2つ目は、日本との関係を強化する改革派である。その中心人物は金玉均である。
82年、攘夷派クーデター(壬午軍乱)。
84年、急進改革派のクーデター(甲申政変)。
これらの反乱に対して、清王朝と日本(明治新政府)はたびたび介入した。その過程で、85年に日本(明治新政府)と清王朝は、天津条約を締結し、戦争を回避した。
当時、清王朝は清仏戦争の真っただ中で朝鮮で大規模な戦争を行う余裕はなかった。
日清戦争
94年、東学の乱(甲午農民戦争)が朝鮮半島で勃発。日清両軍は反乱鎮圧のために派兵した。これをきっかけに日清戦争が勃発した。
翌95年、下関条約で日清戦争は終結した。