1910年代のアメリカ 第一次世界大戦とウィルソン大統領

 1910年代、世界は第一次世界大戦の真っただ中にあった。アメリカは当初中立を保っていたが、のちにイギリス陣営で参戦。第一次世界大戦に勝利した。

 第一次世界大戦でアメリカは債権国になるとともに20年代の繁栄の礎を築いた。

第一次世界大戦と国際連盟

国際連盟

 ウィルソンの「14か条の原則」に基づいて、国際連盟が成立した。

 第一次世界大戦が終結すると、イギリスとフランスは対ソ干渉戦争を行った。イギリスとフランスは日本とアメリカに応援を要請した。日本は、北海道や朝鮮半島での侵攻を恐れすぐにさんせんを決定した。一方、アメリカは孤立主義のため参戦しなかった。

 しかし、チェコスロバキア兵の捕虜問題が発生すると人道支援(宣教師外交)の観点から直ちに参戦した。

パリ講和会議

 第1次世界大戦は、イギリス陣営の勝利で終わった。講和条約はウィルソンの「14か条の原則」に基づいて行われた。

 ドイツに対しては、多額の賠償金を課した。

 東アジアにおいては、日本の「対華21か条の要求」が容認された。

第一次世界大戦

 14年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。ドイツ陣営とイギリス陣営に分かれて戦争が行われた。ウィルソン大統領は当初中立の立場をとった。

 ドイツがイギリスに対して海上封鎖を行った。無差別潜水艦作戦である。これによりアメリカ人が多数亡くなった。アメリカはイギリス陣営側で参戦することとなった。

 第一次世界大戦中、ロシア革命が発生した。ロシア帝国は崩壊し、ソビエト連邦が成立した。ソビエト連邦のレーニンはイギリス陣営から離脱。単独講和した。レーニンは「平和に関する布告」を発表。世界全体で厭戦モードに入った。ウィルソンはこれに対抗するために、「14か条の原則」を出した。

 第一次世界大戦期にヨーロッパ諸国は、戦費調達のために大量の国債を発行した。これを購入したのはアメリカであった。これにより、アメリカは債務国から債権国に代わった。

 第一次世界大戦は2つの社会的変化をもたらした。一つは女性の社会進出である。これは20年代の婦人参政権の導入につながる。もう一つは禁酒運動の高まりである。この理由は2つある。一つは、物資不足により節約機運が高まったためである。二つ目は、ドイツの象徴であるビールを飲まない運動が起こったためである。禁酒運動によって、19年禁酒法が制定された。

民主党 ウィルソン大統領

外交政策 宣教師外交

 外交政策は、タフト大統領が進めていたドル外交から宣教師外交へ切り替えた。宣教師外交とは、ラテンアメリカに対して武力を用いてでも民主主義を植え付けるという外交政策である。かつてスペイン人が武力を使ってキリスト教の布教したのになぞらえてこう呼ばれいてる。第一次世界大戦への参戦もこの外交政策が背景にある。

 ウィルソン大統領は、メキシコやハイチに武力介入を行った。しかし、これらの活動は中米諸国に反米感情を植え付けただけに終わった。このころ、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河が開通した。

経済政策 財閥への規制(革新主義)

中小企業向けに反トラスト法を、労働者に対し労働者保護立法を、農家に向けては関税の引き下げを実施した。さらに銀行改革を実施した。これらの政策は「新しい自由」政策と呼ばれた。

共和党タフト大統領のドル外交

四国借款団と辛亥革命

 タフト大統領は、ドル外交で東アジア市場へ参入しようとした。

 アメリカは90年代の中国分割で出遅れた。アメリカは中国進出が重要な課題であった。10年、タフト大統領は、イギリスとフランス、ドイツとともに四国借款団を結成。清王朝へ貸付を行った。清王朝は、この資金を用いて民族資本家の鉄道の買収を行おうとした。民族資本家は孫文ら革命勢力と結びついて抵抗。辛亥革命につながった。

ドル外交とは

 09年共和党のタフト大統領が就任した。

 タフト大統領は、軍事力ではなくで資本力でラテン地域を支配しようとした。中米のニカラグアを金融保護国にした。

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