前回の復習 6世紀のイタリア
6世紀のヨーロッパは、東ローマ皇帝ユスティアヌス帝の時代である。これにより、イタリアは、東ゴート王国→東ローマ帝国(ビザンツ帝国)→ランゴバルド王国と変遷を続けた。
また、ユスティアヌス帝によってコンスタンチノーブル教会の権威が急速に高まった。これに脅威を感じたローマ教会はベネディクト派の修道士を中心にゲルマン民族への布教を強化した。
今回は、西ローマ帝国の滅亡と東ゴード王国の建国を見ていきます。
東ゴード王国
東ゴード族は、ゲルマン民族の一派である。キリスト教をアリウス派を信仰している。
4世紀半ばにアジア系騎馬民族のフン族侵入すると、フン族の支配下に入った。
4世紀半ば、フン族が急速に衰退。東ゴード族は、自立した。パンノニア平原(ハンガリー)に定住するようになった。
93年、東ゴード族のテオドリック氏が、東ローマ皇帝の要請で北イタリアへ侵攻。オドアケルを暗殺。東ゴード王国を建国。都はラヴェンナに置かれた。
西ローマ帝国の滅亡
76年、西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルのクーデターで滅亡。皇帝はローマを追放された。
オドアケルは、ゲルマン民族である。西ローマ帝国の傭兵隊長であった。
51年のカタラウヌムの戦いにアジア系騎馬民族のフン族を撃退。イタリアの侵入も阻止した。これにより、オドアケルの名声は高まっていた。
76年、オドアケルはクーデターを決行。西ローマ皇帝を追放。オドアケル王国を建国。
アッティラ大王の時代
アッティラ大王は、5世紀のフン族の国王である。
フン族はアジア系の騎馬民族で紀元前1世紀に漢民族に脅威を与えた匈奴の末裔の一部ともいわれている。4世紀にヨーロッパに侵入。パンノニア平原(ハンガリー)に拠点を置いた。
そのフン族の領土は、ライン川、ドナウ川が境になった。東はカスピ海の地域まで及んでいた。
5世紀にアッティラ大王の時代。41年ドナウ川を越えて東ローマ帝国へ侵攻した。
51年にライン川を越えて西ローマ帝国(ガリア)へ侵攻。西ローマ帝国は西ゴード王国とフランク族と連合軍を結成。カタラウヌムの戦いで撃退した。
52年、フン族は北イタリアへ侵攻。ミラノなどで略奪行為が頻発した。また、フン族の侵入をきっかけに北イタリアを中心に疫病が流行した。フン族は、ローマへも進軍したが、ローマ教皇レオ1世の説得で退却した。その背景には疫病の流行があった。
53年、アッティラ大王は、結婚したがその翌日に急死した。これにより、フン族は帝国は急速に衰退し滅亡した。フン族の支配下にあった東ゴード族がパンノニア平原を統治するようになった。
教皇レオ1世
初めて教皇と呼ばれた
教皇レオ1世は、ローマ教会のトップである。それまでローマ教会のトップだあっただけであっただが、レオ1世の時代から教皇と呼ばれるようになる。また、大教皇ととも呼ばれた。大教皇と呼ばれたのは、6世紀末のグレゴリウス1世のみである。
レオ1世は、40年から61年まで教皇(司教)の地位についていた。以下では、レオ1世の業績を見ていく。
ヴァンダル王国のイタリア侵攻
55年、北アフリカのヴァンダル王国がローマを征服。レオ1世は国王と会見。ローマで放火と略奪行為をさせないことを約束した。これにより、ローマ市民の命と財産が守られた。
フン族のローマ侵入を阻止
ヴァンダル王国がローマを征服する前、ミラノなどの北イタリアの都市では、アッティラ大王のフン族が北イタリアで略奪行為を行っていた。西ローマ皇帝はこれを鎮圧することができなかった。
52年、フン族がローマへ侵攻。ローマ司教レオ1世はローマ郊外でアッティラ大王と会見。フン族のローマ侵攻を中止させた。
この事件により、ローマ市民は皇帝ではなく教皇レオ1世を支持するようになる。
53年、アッティラ大王が死去。フン族の略奪行為はおさまった。その2年後に次の脅威が訪れる。それが北アフリカのヴァンダル王国である。
カルケドン公会議
5世紀に入ると、エジプトを中心に単性説が流行した。そのため、ローマ司教レオ1世は東ローマ皇帝に公会議の招集を要請した。51年に東ローマ皇帝は公会議を招集した。これがカルケドン公会議である。
この会議の目的は2つである。
- 単性説を異端とし、三位一体説(アタナシウス派)の正統性を再確認する。
- 五本山体制からローマ教会を中心とした教会組織の変更。
教義については、三位一体説(アタナシウス派)の正統性が再確認された。単性説は、異端とされた。
教会ピラミッドについては、ローマ教会の1トップ体制ではなく、ローマ教会とコンスタンチノーブル教会の2トップ体制に決まった。
なお、五本山体制とは、4世紀末のキリスト教の国教会によって確立された5トップである。ローマ教会、コンスタンチノーブル教会のほかに、アレキサンドリア教会(エジプト)、エルサレム教会(イスラエル)、アンティオキア教会(シリア)である。
この会議期間は、東ローマ帝国がフン族の侵攻を受けている最中であった。さらに51年には、フン族が西ローマ帝国への侵攻を開始していた。
6世紀のユスティアヌス帝の時代になると、コンスタンチノーブル教会がローマ教会をしのぐ勢いを持つようになった。それを阻止したのが6世紀末に教皇になったもう1人の大教皇であるグレゴリウス1世である。・
エフィソス公会議
31年、東ローマ皇帝は、第4回公会議を招集。ネストリウス派を異端とし、アタナシウス派の正統性を再確認した。
ネストリウス派の人々は、ササン朝へ亡命。イランで布教を行った。7世紀にササン朝が滅亡すると中国の唐王朝へ亡命
西ゴート王国の侵攻
西ゴート族は、ゲルマン民族の一派である。4世紀後半にアジア系騎馬民族のフン族がヨーロッパへ侵入すると、ローマ帝国領(バルカン半島)へ侵入し、自治権を獲得した。
5世紀初頭の西ローマ帝国は、ゲルマン派と反ゲルマン派で対立していた。当時の主流派はゲルマン派であったが、反ゲルマン派がクーデターを決行。ゲルマン派の幹部が処刑された。
10年、西ゴート族のアラリックは、ローマへ侵攻。ローマを占領した。
アラリックは、アフリカ(チュニジア)へ渡り、西ゴート王国を建国しようとしたが失敗。まもなくアラリックは亡くなった。
アラリックが亡くなると、今度は侵攻方向を南から北へ変更。南フランス(ガリア)やスペイン(イスパニア)へ侵攻。18年、イタリアからスペインにまたがる西ゴート王国を建国した。
51年、西ローマ帝国とともにカタラウヌムの戦いに参加。フン族を撃退。
5世紀末、フランク族がローマ教会の支援を受けて南フランスへ侵攻。西ゴート王国は、イタリア、南フランスから撤退。6世紀初頭に都をスペインのトレドへ移す。
ローマ帝国の東西分裂
最後に、年表形式で西ローマ帝国の滅亡過程を見ていきます。
- 395年、デオドシウス帝が崩御。ローマ帝国は東西に分裂。当初の都はローマであったが、北イタリアのミラノへ都を遷す。
- 03年、都を中東部のラヴェンナに移す。その理由は、ミラノが何度もゲルマン民族の襲撃を受けたためである。
- 06年、ゲルマン民族の侵入が本格化。西ゴート族が来た遺体リアに、ヴェンダル族がフランス(ガリア)に侵入
- 09年、西ローマ帝国、イングランドから撤退。
- 10年、西ゴート族がローマで略奪
- 30年、ヴァンダル人に北アフリカを奪われる。
- 51年、カタラウヌムの戦いで、アジア系騎馬民族のフン族を撃退。
- 52年、教皇レオ1世がフン族と交渉。ローマ侵攻を阻止
- 55年、ヴァンダル人がローマで略奪行為
- 74年、ヴァンダル人が北アフリカとシチリア島を占領
- 75年、西ゴート王国がスペインを占領
- 75年、西ゴート王国とブルグント王国で南フランスを分割
- 76年、オドアケルのクーデターで西ローマ皇帝が廃位
- 93年、東ゴート王国がオドアケルを暗殺