前回の復習 紀元前1世紀のイタリア
古代のイタリアは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。紀元前1世紀以前は共和政ローマからローマ帝国への以降の時代である。
内乱の1世紀をうけて、権力は少数の有力政治家に集中する用になった。その中には、英雄カエサルもいた。そして、2回の三頭政治(トロイカ体制)を経て、紀元前1世紀末に帝政へ移行した。
今回は、内乱の1世紀の原因になった。格差問題と領土の拡大過程を見ていきます。
改革の時代
なぜ改革が行われたのか
紀元前2世紀後半は、改革の時代である。
紀元前2世紀前半は、今で言うデフレ不況の時代である。属州から安価な商品が流入。多くのローマ市民が職を失った。職を失ったローマ市民は故郷(農地)を捨てて大都会ローマへ集まった。彼らが無産市民である。
紀元前2世紀後半は、不況対策を行っていく時代である。多くの政治家がこの不況対策を実施した。ただ、そこには大きな障害もあった。デフレ不況で巨万の富を得たものである。彼らは改革を潰すために動いた。この2つの派閥の対立は、平民派と門閥派の対立として内乱の1世紀へと続いていく。
マリウスの軍制改革
マリウスは、紀元前1世紀末にコンスル(執政官)に就任した。
マリウスは、平民出身の軍人である。1世紀後半の共和政ローマは、ゲルマン民族やケルト族などの異民族の侵入に苦しんだ時代である。マリウスは、この異民族撃退で名を挙げてコンスルに就任した。
当時は、グラッスス兄弟の改革の失敗した直後である。マリウスに期待するものも多かった。
マリウスは、軍制改革を実施した。徴兵制から傭兵制に変更した。それまで、軍隊は市民が無償で参加していた。そのため、装備も自前である。それを改めて、税金で軍隊を雇い、装備も税金で支給した。
傭兵制へ荷移行することで、無産市民は国家ではなく、雇用主である将軍に忠誠を誓うようになる。これにより、多くの軍事が権力を握るようになる。これが紀元前1世紀の三頭政治へ繋がっていく。
グラッスス兄弟
紀元前133年、グラッスス兄弟が護民官に就任。彼らは、無産市民対策に尽力した。彼らが実施したのは経済改革である。
土地の所有制限を実施。没収した土地を無産市民に分け与えるという政策である。
この政策は多くのローマ市民から指示を集めた。しかし、富裕層や元老院が大いに反発。兄は議場で殺害。弟も自殺に追い込まれ、この改革は失敗した。
また、この改革には他にも問題点があった。それが土地の分配対象が参政権を持つローマ市民に限られていた。ローマ以外のイタリア市民が反発。同盟市戦争に発展した。
格差社会
無産市民
無産市民とは、農地を持たないローマ市民のことである。かれらは、
もともとは農民である。ローマ市民として参政権をもち民会に参加した。重装歩兵として無償で戦争に参加した。
紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけて、大規模な戦争が相次いだ。そのため、農作業に従事できなくなり、農地は荒廃した。
さらに、属州から農作物が流入。農産物価格が大幅に下落。彼らは農地を捨ててローマへ流入した。その多くはマリウスの軍制改革で傭兵になっていた。
騎士階級
騎士階級(エクイテス)とは、富裕層の平民である。馬を飼うことで重装歩兵ではなく、騎士として軍隊に参加した。そのため、重装歩兵よりも重宝された。
彼らは、戦争が終わると、貴族に賄賂を送り属州の徴税請負人となった。
徴税請負人とは、総督(属州のトップ、現在で言う知事)の代わりに属州(イタリア以外のローマの領土)で税金の徴収などの業務を行う地方官僚のような役職である。
かれらは、徴税請負人として税金を集めす際に水増しを行って、私腹を肥やしていた。これにより、富と権力を獲得していった。
貴族と元老院
貴族(パトリキ)とは、元老院議員や総督になることのできる特権階級。建国に尽力した人々の子孫とされる人たちである。のちに、有力者が婚姻により、その家系に入るとことで貴族になるようになった。彼らは新貴族(ノピレス)と呼ばれた。
元老院は、貴族のみで構成される議会である。一度議員になると死ぬまで続けることができた。そのため、一部のコンスルは議員を暗殺して、自派閥の議員を送り込んだ。
もともとは、コンスル(執政官)の諮問機関で、実際の決定は市民全員参加の民会で行われた。しかし、市民権の拡大で民会が機能停止。元老院が民会の代行を行うようになった。
(経済)ラティフンディア
中小農民が放棄した農地は、貴族たちが買っていった。その資金は属州経営で得ていた。貴族は、大規模な資金で農地を買うとともに戦争奴隷を買い集め、奴隷に農作業をさせた。こうした始まったのがラティフンディア(奴隷制大規模農場経営)である。
ラティフンディアが始まると、農産物価格が大幅に下落。一方で農地は高騰。中小の農民は、農地を売って無産市民となっていった。
有力な将軍は、戦争奴隷を売りさばくことで戦費を賄うようになった。これらの資金で無産市民を私兵として雇うようになった。
また、元老院も、ラティフンディア経営者が多数をしめるようになり、戦争に積極的になっていった。
領土の拡大
エジプト
エジプトは、プトレマイオス朝の時代である。プトレマイオス朝とは、アレキサンダー大王の後継国であるヘレニズム3石の1つである。そのため、アンディコノス朝マケドニアやセレウコス朝シリアとの戦争が続いていた。
共和政ローマは、プトレマイオス朝を支援しながら、中東へ進出していった。そのため、プトレマイオス朝は紀元前1世紀まで続いた。
ギリシャ
ギリシャは、アカイア同盟の時代である。アカイア同盟は紀元前3世紀初頭にアンディコノス朝マケドニアから独立したポリス(都市国家)間の同盟である。その中心になった都市はコリントスである。
紀元前3世紀末の第2次マケドニア戦争では、共和政ローマ側で参戦。勝利した。92年、スパルタに勝利。全ギリシャを統一。71年第3次マケドニア戦争が勃発。今度は、マケドニア側で参戦。共和政ローマに敗北。46年、アカイア同盟は解散。ギリシャはローマの属州となった。
北アフリカ(カルタゴ)
北アフリカは、フェニキア人のカルタゴがあった。カルタゴは、現在のチュニジアに城壁都市カルタゴを建設。地中海西部を支配する大国であった。しかし、紀元前3世紀のポエニ戦争で共和政ローマに敗北。シチリア島やスペイン(ヒスパニア)を失った。これにより、紀元前2世紀には北アフリカの小国になっていた。
49年に第3次ポエニ戦争が勃発。46年、カルタゴは敗北。カルタゴは滅亡。北アフリカもローマの属州となった。ちなみに、アフリカの語源が、ローマの人々がこの地域をアフリカとよんだことによる。
マケドニア
マケドニアは、バルカン半島南部の国で、南にギリシャがある。紀元前3世紀にアレキサンダー大王が誕生した国である。
紀元前2世紀は、アレキサンダー大王の後継国であるアンディコノス朝の時代である。紀元前3世紀末の第二次マケドニア戦争で共和政ローマに破れている。
71年、第3次マケドニア戦争が勃発。ギリシャもマケドニア側についた。67年にマケドニアは敗北。アンディコノス朝は滅亡。マケドニアはローマの属州となった。
シリア(地中海東部)
シリアは、セレスコス朝の時代である。セレウコス朝は、アレキサンダー大王の後継国であるヘレニズム3国の一つである。建国当初は、シリアからインド付近まで広がる大国であった。しかし、紀元前3世紀にイラン(パルティア)が独立。国土は半分になった。
紀元前2世紀初頭。第2次ポエニ戦争に敗北したハンニバルが亡命。ハンニバルを味方につけて共和政ローマと戦うが敗戦。
紀元前1世紀にローマの属州になる。