前回の復習 1880年代のスペイン
1880年代、ヨーロッパではベルリン=コンゴ会議をきっかけにアフリカ分割が始まる。
90年代に入ると、ポルトガルはザンビア・ジンバブエからの撤兵で王室の信頼が低下した。また、スペインも米西戦争の敗北で王室の信頼が低下した。
1870年代の国際情勢
1880年代、日本は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されていた頃である。
ヨーロッパでは、70年代から80年代にかけてビスマルク外交の時代に入っていた。ヨーロッパ国内では大きな戦争はなく、軍隊は植民地獲得に向かい始めていた。その標的になったのがアフリカ大陸であった。
スペイン=ブルボン家の復活
復古王政
74年、軍部のクーデターでアルフォンソ12世が帰国。第一共和制を停止し、国王に即位した。
スペイン=ブルボン家は68年革命でフランスに亡命。当時の国王はアルフォンソ12世の母、イザベル女王であった。アルフォンソ12世は、オーストリアで軍事訓練を受けた。
アルフォンソ12世は、立憲君主制を採用。76年憲法を制定した。ここから、保守党と自由党の2大政党制が始まる。
当時の政治の中心はカシケと呼ばれる地方の有力者である。カシケは、都市に住む地主の代わりに農村で生活し、地代を集めるの仕事である。1890年に男子普通選挙が成立。読み書きの出来な地主の代わりに選挙を取り仕切った。
スペインブルボン家は、3度停止
スペイン=ブルボン家は、フランス=ブルボン家の分家である。18世紀初頭のスペイン継承戦争で成立した。
このスペイン=ブルボン家は、現在まで続いている王朝である。しかし、スペイン=ブルボン家は3度停止している。
第一共和政
第一共和政
73年2月、新国王が退位。第一共和政が成立した。ただ、保守派の反乱はまだ続いていた。さらに、地方では地方分権を掲げる連邦派が反乱。都市では、パリ=コミューンで勢いづいていた社会主義者が対等。共和国政府はこれらの弾圧に苦慮した。
翌74年12月、軍部のクーデターが発生。フランスに亡命中のアルフォンソ12世が帰国。スペイン=ブルボン家は2度目の復活を果たした。
外国人国王と保守派の反乱
スペインは、68年のスペイン九月革命で国王を追放。都市部の自由主義者を中心とした新政権が成立した。新国王人事は難航。最終的にはイタリアのサヴォイア家かた迎えることになった。
新国王に対して、保守派の反乱が起こる。そのような中、68年革命の指導者が暗殺される。73年2月、国王は退位した。これにより、スペイン第一共和政が成立する。
19世紀スペインの保守派とは
19世紀のスペインは、2つに分断されていた。保守派と革新派である。
その原因は、30年代の王位継承問題であった。フィルディナント7世である。次期国王に選ばれたのは娘のイザベル女王であった。スペイン九月革命で失脚する女王である。保守派はこれに反発。フィルディナント7世の弟のカルロスを担ぎ出した。これにより、革新派は、クリスティーノス(クリスティーヌ派、イザベル女王の母の名前から)と呼ばれ、保守派はカルリスタ(カルロス派)と呼ばれた。
保守派には、聖職者や農民が中心であった。イザベル女王を支持する都市の富裕層(ブルジョワ)と結びついた。これにより、30年代の王位継承問題は、革新派の勝利で終わった。
普仏戦争
普仏戦争とは
普仏戦争とは、70年に起きたプロイセン(後のドイツ)とフランスの戦争である。勝利したプロイセンは、ドイツ帝国を建国。70年代から80年代のビスマルク宰相の黄金期に入る。一方、フランスはナポレオン3世が失脚。第三共和政が始まる。ただ、大きく混乱し、労働者政権パリ=コミューンが成立した。
この戦争のきっかけは、スペイン王位の継承問題があった。以下ではこの経緯を見ていこう。
スペイン九月革命
きっかけは、68年のスペイン九月革命である。これにより、スペイン=ブルボン家は亡命。これを保護したのがフランスのナポレオン3世である。
王位継承問題
一方、新政権は新国王をプロイセンのホーエンツォレルン家から迎えようとしていた。当時のプロイセンは、ビスマルク宰相の時代。プロイセン=オーストリア戦争の勝利で勢いづいていた。
これに反発したのが、フランス皇帝ナポレオン3世である。プロイセンとスペインの同君連合はなんとしても避けたかった。これで始まったのが70年の普仏戦争である。
新国王はイタリアから
普仏戦争はプロイセンの勝利であった。しかし、プロイセンの新国王の話は白紙に戻っていた。
スペイン新国王は、難航。最終的には、イタリアのサヴォイア家から新国王を迎えた。当時のイタリアは統一したばかりの新興国であった。