前回の復習 1940年代後半のシリア・パレスチナ
2000年代のシリアは、アサド大統領(親)がなくなり、息子に引き継がれた。一方、イスラエルでは、ユダヤ人とパレスチナ人の関係は悪化。第2時インティファーダがおこる。
1940年代前半の国際情勢
90年代、日本は平成初期。バブル崩壊により失われた10年と呼ばれた時代である。長期に渡る不況は銀行が破綻するほどの金融危機が発生した。
89年のベルリンの壁崩壊をきっかけに、激動の90年代画が始まる。ソ連が崩壊し、アメリカ一強の時代が始まる。
Windows95の発売やインターネットの始まりで、IT革命がはじまる。
ユダヤ人の移民制限
第2次世界大戦中のパレスチナ
第2次世界大戦後、パレスチナはユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人)の係争地になる。その前のパレスチナはどのような状況であったであろうか?
1922年、国際連盟は、パレスチナをイギリスの委任統治領とした。国際連盟は現在の国際連合のような組織であり、第1次世界大戦後に発足した。委任統治領は、事実上の植民地であり、第1次世界大戦の敗戦国の領土に適用された。
移民制限
第2次世界大戦時、パレスチナには多くのユダヤ人が移住した。パレスチナ人(アラブ人)はこれをこころよく思わなかった。イギリスは、ユダヤ人の移民を制限した。
ナチスのホロコースト
では、なぜこの時期にユダヤ人移民が急増したのであろうか。それは、ナチスのユダヤ人迫害政策(ホロコースト)が起こったからである。
特にこれが激しかったのは、ドイツに征服されたポーランドである。ポーランドには多くのユダヤ人が居住していた。迫害されたユダヤ人は亡命した。
ユダヤ人の対応
64年5月、PLO(パレスチナ解放機構)が設立された。
アラブ連盟は、第1次中東戦争に敗北。
大部分がイスラエルになり、ヨルダンがヨルダン川西岸地域を、エジプトがガザ地区を獲得し、アラブ人国家は消滅した。
聖地イェルサレムは、当初アラブ人国家の中に入る予定であった。戦争の結果、国境上の都になり、東半分がイスラエル、西半分がヨルダン(ヨルダン川西岸地域)となった。
イスラエルの拡大により、多くのアラブ人(パレスチナ人)が住居を失い周辺国へ亡命した。これがパレスチナ難民問題である。
国連パレスチナ分割案
47年、国連総会はパレスチナ分割案を採択した。パレスチナ分割案とは、イギリス委任統治領であったパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割して独立する案であった。
聖地イェルサレムはアラブ人国家に含められた。
ユダヤ人は、これを歓迎し、翌48年にイスラエルを建国した。
一方、アラブ人はこれを拒否。アラブ連盟は、イスラエルに侵攻した。これが第1次中東戦争である。
イギリスの丸投げ
一方、イスラエルのラビン首相は、95年に暗殺される。これにより、イスラエルは強硬派政権が成立。パレスチナ和平は遠のいた。これが、00年の第2時インティファーダにつながる。
フランスとシリア・レバノン
フランス植民地
親ドイツ政権の成立
ヴィシー政権
シリア・レバノンの独立
シリア独立の承認
現在のアサド政権は、2代目である。初代アサド政権は、70年に成立した軍事政権である。70年代の2つの戦争で国民の支持を集めた。第四次中東戦争とレバノン内戦である。
レバノン内戦で国際的に孤立する。
80年代、イスラエル軍がレバノン南部に駐屯。レバノンはしばしばイスラエルの空爆を受けた。
90年、シリアのアサド政権は、レバノンに派兵。これにより、レバノンは平和になった。