1980年代後半の中国 天安門事件

前回の復習 1990年代の中国

 天安門事件によって、鄧小平体制が崩壊。江沢民を中心としたとした政治体制が構築された。経済面では自由化を認める一方で、政治の民主化は認められなかった。

 今回は、鄧小平体制が崩壊するきっかけになった、天安門事件を見ていきます。

1980年代後半の国際情勢

 日本は、バブル経済の真っ只中である。平成が始まり、消費税が導入された。

 89年は、衝撃的な年である。11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊。12月にはマルタ会談で冷戦が終結した。

概要

 天安門事件とは、1989年6月3日深夜から翌4日にかけておこなわれた学生を中心としたデモ。学生は、政治の民主化を求めた。中国政府は、これを武力を使って弾圧。このため、90年代前半の中国は孤立化した。

 70年代にも天安門事件が発生している。それと区別するために、第二次天安門事件や六四天安門事件と呼ばれることがある。

背景)経済の自由化に

格差社会

 中国は、社会主義国である。80年、鄧小平氏を中心に市場経済を導入。これが「改革開放政策」である。これにより、中国経済は成長した。しかし、一方で格差は拡大した。それによって問題化したのが腐敗政治家の存在である。結果、学生たちは腐敗政治家のいっそうをもとめて政治の民主化を求めるようになった。

86年の中国の主要な政治家

 80年代の中国の国家主席は、鄧小平氏である。鄧小平氏は、共産党総書記(党のトップ)に胡耀邦氏、首相(行政のトップ)に趙紫陽氏をすえた。

86年の国際状況

 政治的な民主化は、ソ連(ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど)から始まった。85年、若き総書記こと、ゴルバチョフ総書記が誕生した。

 86年4月、現在のウクライナにあるチェルノブイリ原発事故が発生。これをきっかけにゴルバチョフ総書記は、情報開示政策(グラスノチ)を開始する。

 韓国では、80年の光州事件をきっかけに、87年に民主化宣言が出された。日本では、83年にロッキード事件で田中角栄元首相に有罪判決。その年の総選挙で自民党は過半数割れになり、新自由クラブとの連立政権になった。86年には竹下派が発足した。

学生デモと胡耀邦氏

 86年、北京大学の学生を中心に学問の自由をもとめたデモが発生した。

 党のトップである胡耀邦氏は、穏健的な対応をとり、学生の要求を認めるように動いた。

 鄧小平氏は、これを許さなかった。胡耀邦氏は総書記(党のトップ)を解任。首相の趙紫陽氏を昇格させた。李鵬首相が誕生した。この事件で、民衆と政府の間に緊張関係が生まれた。

インフレ

 鄧小平氏と趙紫陽氏は、「改革開放路線」を更に勧めた。結果、88年から89年にかけて、年率17.8%のインフレ(物価上昇)が発生した。

 ここで、鄧小平氏と趙紫陽氏の間に亀裂が生じた。趙紫陽総書記は、価格統制令で政府介入でインフレを抑制しようとした。一方で、鄧小平国家主席は、価格の自由化を維持しようとした。

 この政治対立を維持した状態で天安門事件へと向かっていく。インフレによる生活苦が天安門事件に繋がったとも言える。

経過

胡耀邦氏の死

 天安門事件が起きたきっかけは、89年4月の胡耀邦元総書記の死がある。これをきっかけに、学生の民主化を求めるデモが発生した。

 趙紫陽総書記は、寛容な対応を取ろうとしたが、鄧小平国家主席や李鵬首相は、高圧的に抵抗した。

五四運動70周年

 70年前の1919年の5月4日、中国の独立運動が起きた。五四運動である。当時の中国はヨーロッパ各国によって半植民地化されていた。

ゴルバチョフ書記長の来日

 中国政府は、タイムリミットがあった。これは、5月15日ゴルバチョフ総書記の訪中である。

 ソ連と中国は当時、国交がなかった。この国交を正常化するために、ゴルバチョフ書記長は訪中をした。

 政府首脳部と学生の直接対談も行われたが、決裂。

経過

影響

江沢民総書記

失脚

国際的に孤立

愛国教育

 習近平国家主席は、それまで続いていた改革開放路線を交代させた。

 香港には、「一国二制度」

尖閣諸島問題

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