前回の復習 1910年代のシリア・パレスチナ
1910年代、第一次世界大戦が勃発した。中東では、イギリスvsオスマン帝国の構図になっていた。イギリスはオスマン帝国に勝つために三枚舌外交を展開した。
今回の後半では、三枚舌外交に関係するユダヤ人とハーシム家の動きを見ていきます。
1900年代の国際情勢
1900年代、世界に最も大きな衝撃を与えたのは日露戦争である。日本は、強国の一角であるロシアを破ったのである。
これにより、ヨーロッパでは、イギリスとロシアが接近。三国協商が完成。イギリスvsドイツの第一次世界大戦の構図が完成した。
一方で、アジアではヨーロッパ諸国からの独立運動が活性した。
青年トルコ革命と中東
オスマン帝国の支配
19世紀、中東を支配していたのはオスマン帝国である。オスマン帝国は、中東だけでなく、バルカン半島まで領土が拡大していた。
この時の皇帝はアブデュルハミト2世の時代である。78年の露土戦争時にミドハト憲法を停止。専制政治を開始した。
青年トルコ革命でオスマン帝国の弱体化
06年、日本が日露戦争に勝利。明治憲法を維持し続けた日本が勝利したことで憲法の重要性を再認識した。00年代のオスマン帝国は、露土戦争や鉄道建設で財政難になっていた。
08年、青年将校がミドハト憲法の復活をもとめて革命を起こした。これが青年トルコ革命である。これにより、オスマン帝国は弱体化した。
オーストリアは、バルカン半島東部のボスニア=エヘルチェゴビナを併合。ブルガリアが完全に独立した。10年にアルバニアで反乱が起きる。
10年代に入ると、イタリアが北アフリカのオスマン帝国領リビアへ侵攻。イタリア=トルコ戦争、バルカン戦争、第一次世界大戦へと続いて行く。
ちなみに、青年トルコ革命が起こると、ハーシム家のフサインはメッカの太守になっている。
第一次世界大戦の構図
ドイツ帝国とオスマン帝国
アブデュルハミト2世の専制政治を支援した皇帝がいた。ドイツ皇帝ヴェルへルム2世である。ドイツ帝国は帝国主義政策が遅れていた。そのため、植民地の大部分は、アフリカ南部や中国、太平洋などの遠隔地であった。その起死回生策としてでたのが3C政策である。
3C政策とは、ベルリンとペルシャ湾を結ぶ鉄道敷設計画である。オスマン帝国はドイツに鉄道敷設権を与えた。この計画では、バルカン半島ではロシアとバグダードでイギリスと対立した。
この敷設計画で、ペルシャ湾岸のクウェートが反発。この反発を支援したのがイギリスであった。
ドイツは、この3C政策でイギリスとロシア双方を敵に回した。
英仏協商
極東では、朝鮮半島をめぐり、日本とロシア対立していた。当時、フランスは、ロシアと露仏同盟を締結していた。イギリスは、日清戦争に勝利した日本と日英同盟を締結した。このまま、日本とロシアが戦争になれば、英仏戦争まで発展することになる。そのため、イギリスとフランスは、英仏協商を締結。相互に日露戦争に参加しないことを約束した。
三国協商へ
日露戦争が終結すると、イギリスとロシアは交渉を開始した。その背景には、ドイツがある。
イギリスとロシアは、イランやインドで勢力争いが展開されていた。この交渉でイギリスとロシアの勢力圏が確定。これが英露協商である。これにより、三国協商が完成した。
シオニズム運動の始まり
シオニズム運動とは
シオニズム運動とは、ばらばらになったユダヤ人が彼の地であるパレスチナに集まって統一国家を建設しようとする運動である。
そのきっかけは、19世紀後半のユダヤ人差別に関する事件があった。1つは、1880年代のロシアのユダヤ人迫害であり、もう1つは、後述のフランスのドレフュス事件である。
ドレフュス事件
80年代におきたロシアのユダヤ人迫害で、ユダヤ人の危機意識が高まった。特にフランスのユダヤ人は、90年の露仏同盟でロシアとの交流が多くなり、その意識は高まっていた。
そのような中、起こったのが94年のドレフュス事件である。ドレフュス事件とは、ユダヤ人のドレフュス大尉が、ドイツのスパイ容疑で逮捕された事件である。
第1回シオニズム大会
ドレフュス事件をきっかけに、97年にスイスのバーゼルで第1回シオニズム大会を開催。ユダヤ人はヨーロッパで一大政治勢力になった。
06年、ドレフュス大尉に無罪判決。ドレフュス事件は集結した。
近代のフセイン
フセイン
フセインは、18世紀半ばにうまれ、第38代ハーシム家の当主となった人物である。第一次世界大戦期にイギリスとフサイン=マクマホン協定を結んだ。
フセインは、中東ではありふれた名前である。歴史の教科書でも3人は出てくる。中世では、7世紀後半のウマイヤ朝時代に登場する。4代目カリフの子どもの1人がフサインである。父と兄がなくなるとシーア派の盟主として戦死している。現代史では、イラク戦争でなくなったイラクのサダム=フサイン大統領がいる。
ハーシム家とは
ハーシム家は、メッカの名門クライシュ族の有力12家の1つである。イスラム教が誕生する前からの名門である。4代目カリフのアリーは、ハーシム家の出身である。以後、アリーの子孫が当主を務めていた。ハーシム家の当主は、宗教的権威からメッカの宗教的指導者(シャーリフ)と地方総督(シャリーフ)を努めていた。
メッカの太守へ
フサインは、1893年にオスマン皇帝の命でイスタンブールに強制移住させられた。時のオスマン皇帝はアブデュルハミト2世である。皇帝は、露土戦争時代に憲法を停止し、専制君主制へ移行した人物である。
08年に青年トルコ革命が起こると、皇帝はフサインを解放した。皇帝は、フサインをメッカに帰郷させ、メッカのあるヒジャーズ地方の太守(地方長官)にさせた。これにより、ヒジャーズ地方は自治権を獲得した。