紀元前1世紀のシリア・パレスチナ ローマとヘロデ王

前回の復習 1世紀のシリア・パレスチナ

 1世紀のシリア・パレスチナでは、イェルサレムでイエスが処刑された。現在、その地には、聖墳墓教会が立っている。その後、第1次ユダヤ戦争が勃発。第二神殿が破壊された。現在、その跡地には、イスラム教の聖地岩のドームが建設されている。いっぽうで、第二神殿の壁の一部は、まだ残っており、これが、ユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」である。

紀元前1世紀の国際情勢

 紀元前1世紀(BC100年ーBC1年)の日本は、弥生時代。中国は、漢王朝(前漢)の時代。武帝の後半の時代である。

 中東のイランにはパルティアが、ヨーロッパには共和政ローマが存在している。

ローマの直接統治へ

 紀元前7年、ヘロデ王の時代に、イエスが誕生する。

 紀元前4年、ヘロデ王が亡くなる。このあと、ユダヤ王国は、後継者争いが起こる。

 紀元6年、ローマ帝国は、新たな国王を任命せず、ローマが直接統治することにした。

ヘロデ王

ヘロデ王

 ヘロデ王は、37年にハスモン朝を滅ぼし、ユダ王国の国王になる。

 ヘロデは、改宗したユダヤ教徒であったが、ハスモン朝の内紛とローマの支援で国王になることができた。ただ、ユダヤ人はあまり歓迎しなかった。とくに、ユダヤの人々はユダ王国のローマ化を恐れていた。

 ヘロデ王は、ローマ軍により破壊された第二神殿の大修復を実施。反発を抑えようとした。

親ローマ派

 ヘロデ王は、ローマの新政権と結ぶことで国王になることができた。

 当時のローマは、混乱していた。53年にクラッススが戦死すると、第1回三頭政治は崩壊した。ユダ王国の建国を支援したポンペイウスはエジプトで暗殺。カエサルもその後、暗殺された。

 ローマでは、第2回三頭政治が始まった。エジプトなど東地中海は、カエサルの部下であるアントニヌスが担当することになった。

 ヘロデは、アントニヌスの協力を得て、ハスモン朝をほろぼし国王になった。

 アントニヌスがアクティウムの海戦に敗北。ヘロデはオクタウィアヌスに接近。その地位を確保した。

パリサイ派の台頭

 ハスモン朝の時代、ユダヤ教の新派が現れた。これがパリサイ派である。ヘロデ王やローマ総督は、新たに誕生したパリサイ派に結びついた。

 これに対し、従来のユダヤ教は、サドカイ派と呼ばれる。

 サドカイ派は、儀礼の遵守を大事にした。一方で、パリサイ派は、儀礼の遵守よりも、日常生活での律法(トーラー)の遵守を大事にした。

 パリサイ派は、現在まで続いていて、「正統派」と呼ばれている。

ローマの影響

 63年、ポンペイウス率いるローマ軍がユダ王国を占領。第二神殿は破壊され、ユダ王国は、ローマの支配下に入った。しかし、ユダ王国の存在は認められ、ハスモン朝は存続した。

前政権)ハスモン朝

 ハスモン朝は、紀元前2世紀半ばに成立したユダヤ王国の王朝である。マカベア戦争でセレウコス朝シリアから独立した時に成立した。

セレウコス朝の滅亡

概要

 64年、ローマ軍がイラクのセレウコスを陥落。セレウコス朝は滅亡した。

セレウコス朝とは

 セレウコス朝は、紀元前4世紀に成立した国家で、建国当時は、シリア(東地中海)〜イラク(メソポタミア)〜イラン(ペルシア)〜インダス川流域(インド西部)まで広がる大帝国であった。

 初代国王は、アレキサンダー大王の家臣でギリシャ系。ただ、妻がイラン人なので、王家はギリシャ系とイラン系のハーフになる。

 紀元前3世紀には、東部でパルティアなどが独立。

ローマ軍と司令官ポンペイウス

 ローマ軍を指揮していたのは、ポンペイウスであった。

 当時のローマは、内覧の1世紀という混乱の時代であった。保守派の閥族派と革新派の平民派の対立が続いていた。ポンペイウスは、当初は閥族派であったが、司令官を通じて、カエサルなどの平民派と連携して動くようになる。

 64年、セレウコス朝を占領。翌63年、ユダヤ王国のイェルサレムを占領。60年、カエサル、クラッススとともに第1回三頭政治を行う。

 ローマは、セレウコス朝を滅亡させると、イラク(クテンシフォン<後のバグダード>)とアルメニアをめぐり、イラン(パルティア)と対立するようになる。

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