1世紀のシリア・パレスチナ イエスの誕生と嘆きの壁

前回の復習 2世紀のシリア・パレスチナ

 2世紀のシリア・パレスチナは、属州としてローマ帝国の支配を受けていた。

 第二次ユダヤ戦争に敗北したユダヤ人は、パレスチナを追われ、ローマ帝国各地に離散した。これをディアスポラという。

1世紀の国際情勢

 1世紀(AD1年ー100年)の日本は、弥生時代。世界は東西2大帝国の時代。

 中国では、光武帝が漢王朝(後漢)を再興。ヨーロッパでは、ローマ帝国が成立していた。

嘆きの壁

嘆きの壁とは

 嘆きの壁とは、エルサレムにあるユダヤ教の聖地である。第2次ユダヤ戦争で破壊された第二神殿の壁である。

 第二神殿は、6世紀に再建されたユダヤ教の神殿である。現在は、イスラム教の聖地である岩のドームがあり、ユダヤ教徒はそこには入れない。

 2世紀、ユダヤ人は第2次ユダヤ戦争に敗北。エルサレムから追放された。しかし、4世紀、コンスタンティヌス大帝により、年1回の嘆きの壁での礼拝が認められるようになった。

第二次ユダヤ戦争

 1世紀に入ると、ユダヤはローマ帝国の重税に苦しむようになった。さらに、皇帝崇拝を求められた。これにより、ユダヤ人の多くがローマ帝国に不満を持つようになった。

 66年、ユダヤ人は反乱を起こした。ユダヤ戦争である。ローマ皇帝ネロ帝は、鎮圧軍を派遣した。その指揮を取ったのが、ウスパシアヌス指揮官である。

 69年、ネロ帝が自殺。混乱するローマに向かって、ウスパシアヌスが帰国。息子が戦争を引き継いだ。

 70年、ローマ帝国軍がエルサレムを陥落。このとき、第二神殿を破壊した。

 74年、ユダヤ戦争はようやく鎮圧した。

暴君ネロ帝と皇帝崇拝

ネロ帝

 ネロ帝は、ローマ帝国第5代皇帝で、ユリウス=クラディウス朝最後の皇帝である。54年に即位した。当初は、善政を敷いていたが、次第に乱行がおおくなり、ローマでの評価が下がっていた。

キリスト教の迫害

 64年7月、ローマで大火事がおこり、ローマの大部分が消失した。ローマではネロ帝が実施したのではないかとの噂が立つ。

 ネロ帝は、この噂を払拭するために、あるカルト宗教を犯人に仕立て上げた。それが、キリスト教である。

 ネロ帝は、次々とキリスト教徒を処刑した。ときには、見世物としてコロセウムでキリスト教徒と猛獣(ライオンなど)を戦わせた。

 宣教師であるペトロやパウロもネロ帝のキリスト教の大迫害を受けて殉教した。

第二次ユダヤ戦争

 ネロ帝のキリスト教大迫害の様子は、ローマ帝国じゅうにひろまった。それは属州ユダヤも同じである。ユダヤ人は、ローマ帝国の重税で苦しんでいた。そこへ、異教徒への迫害である。

 ユダヤ人は、ユダヤ教を信仰していた。そのため、キリスト教の次は、ユダヤ教ではないかと震え上がった。そして、66年、第1次ユダヤ戦争が勃発する。

ネロ帝の晩年とギリシャ

 ネロ帝は、ユダヤ戦争を視察。その帰りにギリシャに立ち寄る。ユダヤ戦争を受けて、他の地域での反乱を警戒してとの行動と思われる。

 ネロ帝は、ここで、ギリシャ文化に感銘を受け、ギリシャに入り浸る。ギリシャで開催されていた古代オリンピックにも参加した。

 この行動に、ローマの元老院は激怒。ネロ帝を廃位した。68年、これを受けて自殺した。

ネロ帝の自殺

 68年、ネロ帝が自殺。ユリアス=クラウディウス朝が断絶した。これにより、皇帝が乱立した。69年、第1次ユダヤ戦争の指揮官であったウェスパシアヌス帝が即位して、この混乱が集結した。

キリスト教の成立

格差

 新興宗教にハマるのは、主に貧困層である。1990年代の日本で、オウム真理教に入信したのは、氷河期時代の学生であった。イスラム教に最初に入ったのも、メッカの貧困層であった。

 イエスのもとに集まったのも、パレスチナの貧困層であった。

 当時のパレスチナは、ローマ帝国の重税に苦しめられていた。しかし、パレスチナでも一部の上級国民は、ローマ帝国と結びつき、安定的な生活を送っていた。

プロテスタントとしてのイエス

 では、イエスの生涯を見ていきましょう。イエスは、パレスチナに生まれた。当時のパレスチナは、ローマ帝国を宗主国とするユダヤ王国があった。

 キリスト教では、イエスが生誕した年を西暦1年とした。しかし、最近の研究の結果、紀元前7年に生まれたと推測されている。

 紀元前4年、ユダヤ王国のヘロデ王が亡くなる。後継者争いがおこり、ローマ帝国が介入。ユダヤ王国は滅亡。ローマ帝国の属州になった。

 イエスは、30歳近くになった頃。神の啓示を受けたとされている。この頃から、宗教活動を開始した。

 イエスのもとには、多くの人が集まった。その多くは、ローマ帝国の重税と宗教儀式に関する負担で苦しむ貧困層が中心であった。その中には、ピサロやパウロなどがいた。

 ただ、彼らは、ユダヤ教の一派として行動し、新しい宗教(キリスト教)を起こしたとは考えていなかった。

パリサイ派

 当時、ユダヤ教の中枢は、パリサイ派が占めていた。パリサイ派は、律法(トーラー)を遵守することを重視した。パリサイ派は、イエスが起こした宗教活動を警戒した。

 そして、ユダヤ総督の

イエスの処刑

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ペテロとパウロ

ネロ帝の大迫害

 64年7月、ローマで大火が起こる。ネロ帝は、これをキリスト教徒の仕業として、キリスト教の大迫害が行われた。

 このとき、ローマにいたペテロやパウロも処刑された。ペテロが処刑された場所には、現在、ローマ教会があり、カトリックの総本山担っている。

 当時、ローマでは、キリスト教を知る人は少なかった。しかし、ネロ帝の迫害によって、多くの人々にキリスト教の存在が広まった。

ピラト総督

紀元前1世紀、パレスチナは、ローマ帝国の支援を受けたユダヤ王国が存在した。紀元前4年にユダヤのヘロデ王が亡くなる。その後、ユダヤ王国は内紛状態になる。そのため、ローマ帝国は、直接統治を開始した。そこに派遣されたのがピラト総督で合う。