1910年代の朝鮮半島 日韓併合とWWⅠ

 1910年代、ヨーロッパでは第一次世界大戦(WWⅠ)が勃発した。日本は、この戦争に参加し、強国の一つに入ることになった。そのころ、朝鮮半島は日韓併合が行われ、1945年まで日本の領土となった。

三・一独立運動

 第一次世界大戦が終結すると、19年1月フランスのヴェルサイユで講和会議が行われた。前年のウィルソンの十四か条の原則民族自決が掲げられた。植民地化されたアジアの多くの国が独立を期待した。朝鮮半島も日本からの独立を期待した。

 しかし、ヴェルサイユ条約で独立が認められたのは敗戦国のオスマン帝国、オーストリア帝国の支配下にあった東欧諸国に限られた。アジアアフリカ地域の独立はこの会議では認められなかった。

 同じく1月、元朝鮮国王の高宗が急死。高宗が日本人によって毒殺されたのではという噂が流れ、反日感情に火が付いた。

 2月、日本で朝鮮留学生らによる学生デモが開催され、多くの逮捕者を出した。

 3月1日、ソウルでは2日後に開催予定の高宗の国葬の準備が行われていた。そのような中、突如、朝鮮の独立宣言が発表された。この独立運動を受けて朝鮮半島各地で万歳三唱が行われた。この運動の参加者の一部が暴徒化し、逮捕者を出した。

 日本政府は、この事件により、武力による治安維持は不可能と判断。文化政治へと転換していく。

第一次世界大戦

 14年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。日本は、イギリス陣営で参戦。中国北部のドイツ植民地を攻撃した。

 一方、建国したばかりの中華民国の袁世凱政権もイギリスが陣営で参戦した。

 ロシアも、イギリス側で参戦していたが第一次世界大戦中にロシア革命が勃発。ロシア帝国は崩壊した。これにより、中国北部で勢力を拡大していたドイツとロシアが撤退。この地域に日本が滑り込んだ。

 一方、これに警戒する国があった。中国分割に出遅れたアメリカである。

辛亥革命

 隣国中国では、清王朝が崩壊。中華民国が建国された。臨時大総統になったの袁世凱であった。袁世凱が就任すると独裁色を強めていった。しかし、地方の有力者は、これに反発。中国各地で反乱がおき、戦乱の時代に入った。当時の地方の有力者たちは軍閥と呼ばれ、独自の軍隊を持つようになった。

武断政治

 日韓併合が行われると、日本政府は朝鮮総督を派遣した。朝鮮総督は天皇直下の役職で内閣とは独立した組織になった。朝鮮総督には陸軍もしくは海軍の大将が務めた。

 朝鮮総督は、朝鮮半島の政治と軍事を掌握。憲兵は、朝鮮の家警察の要職を兼任。朝鮮半島全域の治安維持に努めた。

 韓国併合が行われると、土地の所有権の確認が行われた。(土地調査事業)。所有権不明などで、多くの土地が国家によって接収。これらの土地は、東洋拓殖会社や日本人地主に払い下げられた。

韓国併合

 09年、伊藤博文が朝鮮人の安重根に暗殺された。これにより、日本政府は日韓併合へ大きく舵を切った。

 10年8月、韓国皇帝陛下が日本の天皇陛下へ朝鮮の統治権を譲るという形で韓国併合が行われた。ここから1945年の日本敗戦まで朝鮮半島は日本の植民地となった。

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