カテゴリー: 日本史
1930年代の日本 満州事変で国際的に孤立
高橋財政で景気回復
日本は20年代から不況に入ったいた。第一次世界大戦でアジア各地の工業化が進んだ。そのため、戦後恐慌が始まった。そのような中、関東大震災で景気はさらに落ち込んだ。この不況は金融恐慌にまで発展した。そこに追い打ちをかけいたのが 29年の世界大恐慌であった。
そのような中、高橋是清が大蔵大臣(今の財務大臣兼金融庁長官)に就任。金本位制を取りやめ円安誘導による輸出拡大、財政出動を行い不況から脱した。しかし、イギリス・フランスが高関税政策をとると、輸出が減り再び不況に入った。
日中戦争(外交、軍事)
軍縮の20年代
第一次世界大戦が終結すると米英日で海軍の軍縮交渉が頻繁に行われた。しかし、この軍縮交渉はなかなか終わらなかった。しかし、29年の世界大恐慌で、軍事費、とくに海軍の軍事費の削減が必要になった。そのため、30年ロンドン海軍軍縮会議で、海軍の軍縮がようやくまとまった。
満州事変で国際連盟を脱退
31年中国東北部(満州)で満州事変が勃発。日本と中華民国は緊張状態に入る。日本は、満州を勢力圏に置き、清の最後の皇帝溥儀のもと、満州国を樹立した。国際連盟は、東欧の新興独立国を中心に満州国成立を認めなかった。そのため、33年日本は国際連盟を離脱した。37年には、日中戦争がはじまった。
英米の協力を得られなくなった日本は、ファシズム国家のヒトラー下のナチスドイツ、ムッソリーニ政権下のイタリアと37年日独伊防共協定を結んだ。
第二次世界大戦へ
世界は、イギリスを中心としたのちに連合国と呼ばれるグループとドイツを中心としたのちに枢軸国と呼ばれるグループに分かれた。その中でキャスティングボードを握ったのが世界大恐慌で無傷であったソヴィエト連邦であった。
ソヴィエト連邦は、第一次世界大戦で独立した東欧諸国を分割するため、39年ドイツと不可侵条約を締結した。39年ドイツがポーランドへ侵攻するとイギリス・フランスはポーランドを支援。第二次世界大戦が開戦した。
軍国主義の道へ
16世紀後半の国際情勢
明王朝と北虜南倭
16世紀後半、明王朝は中国全体をコントロールすることができなくなっていた。北方からは騎馬民族がしばしば侵入していた。また、中国南部では密貿易が横行。商人は武装化し、明王朝の役人と戦える状態になっていた。この密貿易ネットワークは、九州・沖縄なども含まれていた。大航海時代で進出したスペインなどのもこの見る貿易網に参入した。
太陽の沈まぬ国 スペイン
この時代ヨーロッパの大国は、スペインであった。スペインはフィリピンに進出。東アジア交易網に参加した。当時のスペイン国王はフィリペ2世である。
彼らは、アメリカのポトシ銀山の銀を使って陶器などの中国製品を大量に買った。これにより、中国は大量の銀を獲得した。
また、この時期にスペインは、ポルトガルを併合。スペインは、新大陸とアジアに植民地をもつ太陽の沈まぬ国となった。
織田信長と宗教改革
織田信長は、尾張(今の名古屋)の戦国大名であった。16世紀後半に京都へ進出。応仁の乱で焼け野原になっていた京都を復興させた。
織田信長は、京都へ進出すると旧勢力の排除を行った。室町幕府を滅ぼし、比叡山の焼き討ちを実施した。また、石山本願寺を屈服させた。しかし、彼は宗教自体には寛容であった。ただ、石山本願寺や比叡山は反信長勢力と結びつきがあったため世板厚の対象となった。
信長の経済政策は、楽市楽座である。当時、商人は免許制であった。しかし、信長はこの免許制をやめ自由に貿易をさせた。これにより京都を中心とした関西圏は大いに栄えた。これにより、鉄砲などの最新軍備をそろえることができ、常備軍を持つことも可能になった。
外交政策では、キリスト教(カトリック)を保護し、スペイン・ポルトガルと積極的に交流した。
豊臣秀吉と朝鮮出兵
しかし、織田信長の時代は長くは続かなかった。本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉がこれを引きついだ。豊臣秀吉は、皇族や公家との関係を強化し、関白となった。関白の地位を巧みに使い、天下統一を果たした。
豊臣秀吉は、天下統一を果たすと兵農分離政策を行った。刀狩りや太閤検地を行ったのである。大名の力を示す〇万石という言葉はこの当時に一般化した。
豊臣秀吉は、外交政策を大きく転換させた。彼が九州を訪れた際、かなりの惨状を目の当たりにした。神社仏閣は破壊され、奴隷売買が横行していた。そのため、豊臣秀吉は、キリスト教を禁止した。しかし、ポルトガルとの交易は公認していた。
豊臣秀吉は、天下統一を果たすと、衰退している明王朝への侵攻を始めた。朝鮮出兵である。しかし、朝鮮出兵に参加した大名の士気が高くなく、豊臣秀吉が亡くなるとすぐに撤兵した。