1850年代、日本にはペリーが来航。幕末の動乱が始まった。
このころ、ロシア帝国は大きな戦争がおこった。クリミア戦争である。
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7世紀のロシア ビザンツ帝国とイスラム教
7世紀、日本は飛鳥時代。中大兄皇子が大化の改新を行ったころである。
このころ、東欧のビザンツ帝国は、バルカン半島と小アジアのみを支配していた。周辺には異民族がビザンツ帝国の領土を狙っていた。そして、7世紀に新たな脅威があらわれたイスラム教徒とブルガリアである。
8世紀初頭の状況
8世紀初頭、ビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕していた。その理由は2つの異民族である。1つ目は、イスラム教のウマイヤ朝シリアである。もう一つは、バルカン半島を支配していたアジア系騎馬民族であるブルガリアである。今回は、この2つの外敵がどのように登場したのかを見ていきましょう。
7世紀初頭の状況
3つの異民族の脅威
7世紀初頭、ビザンツ帝国は、東欧南部のバルカン半島と小アジア(トルコ)を支配していた。しかし、多くの異民族に囲まれていた。
北(東欧)からの侵略者 南スラヴ人
南スラヴ人とは、旧ユーゴスラヴィアの大部分の民族でセルビア人やクロアチア人などがである。
スラヴ人は、もともと東欧のポーランドに住んでいた。6世紀ごろからはじまる第二次民族大移動で各地へ移動を始めた。南スラヴ人がビザンツ帝国領内(バルカン半島)へ移住を始めたのもこのころである。
西(イタリア)からの侵略者
ゲルマン民族(ランゴバルド族)
バルカン半島の西、イタリアはランゴバルド族の領土であった。
ランゴバルド族は、6世紀ユスティアヌス帝とともに東ゴード族を倒したゲルマン民族である。当初はビザンツ帝国に従っていた。しかし、ビザンツ帝国が衰退すると独立。イタリアを支配した。ラヴェンナを中心としたイタリア北東部に拠点をおき、この地域は現在、ロンバルディアと呼ばれている。
ランゴバルド族は、8世紀中ごろ、ローマ教会と同盟を組んだフランク王国によって滅ぼされた。
東(中東)からの侵略者 ササン朝ペルシア
ササン朝ペルシアは、ローマ帝国時代からの宿敵である。主な係争地は、黒海の東側カフカス地方(アルメニア、ジョージアなど)である。
6世紀、中央アジアのエフタルを滅亡させると、再びビザンツ帝国へ侵攻した。聖地イェルサレムやエジプトまで進出した。
しかし、10年ヘラクレイオス1世が即位すると形勢は逆転。ササン朝ペルシアの最大の都メソポタミア(イラク)のクテンシフォン(バグダード周辺)を占領。シリア・エジプトを奪還した。
なお、ヘラクレイオス1世の即位した610年から711年(レオン1世)までをヘラクレイオス朝という。
新たな敵、イスラム教の台頭
このころ、中東のアラビア半島では新たな動きが起きた。10年ムハンマドがイスラム教の布教を始めたのである。32年ムハンマドが亡くなった。このころになるとイスラム勢力はアラビア半島一帯を治めるようになる。
ムハンマドが亡くなると、選挙でイスラム教のトップ(カリフ)を選ぶようになる。この32年~61年までの時代を正統カリフ時代という。42年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに大勝。ササン朝ペルシアを滅ぼした。
この正統カリフ時代から、ビザンツ帝国との戦いが始まった。この時代にビザンツ帝国は、シリア、エジプトを失った。これら地域は小麦の生産地域であった。そのため、この地域を失うことでビザンツ帝国の衰退期が始まった。
8世紀の悩みの種 ウマイヤ朝シリアとブルガリア帝国
ウマイヤ朝シリアとは
ウマイヤ朝シリアとは、正統カリフ時代が終了した後に成立した世界初のイスラム王朝である。都はシリアのダマスカスであった。
61年、4代目カリフのアリーが暗殺。シリア提督ウマイヤ家のムアーウィヤが次のカリフに就任した。以後、カリフはウマイヤ家が世襲した。そのため、ウマイヤ朝と呼ばれた。
ウマイヤ朝は、北アフリカを西へ侵攻。イベリア半島(スペイン)の西ゴード族と争うようになる。
一方で、ビザンツ帝国への侵攻も強めた。74年には首都コンスタンチノーブルを包囲した。また、8世紀初頭に再びコンスタンチノーブル包囲を行う。
81年 ブルガリア帝国
74年、ビザンツ帝国がウマイヤ朝が包囲されたころ、バルカン半島でも新たな敵が登場した。アジア系騎馬民族ブルガリアである。
ブルガリアは7世紀にバルカン半島へ侵入した。アジアの騎馬民族の侵入は、4世紀のフン族に続き2回目である。
7世紀にわたり、ブルガリアとビザンツ帝国は抗争を続けた。74年のウマイヤ朝のコンスタンチノーブル包囲でビザンツ帝国が疲弊すると、81年ビザンツ皇帝はブルガリアと和平を結びブルガリア帝国を承認した。
1880年代のロシア アフガン王国をめぐる戦い
1880年代、日本では大日本帝国憲法が発布。国会が開設された。この頃、ロシア帝国は70年代のベルリン会議で地中海からの進出を断念した。80年代、ロシア帝国は中央アジアからのルートを模索した。
14世紀、ロシアはモンゴルの支配下にあった。当のモンゴル帝国はすでに兄弟間で分裂していた。ロシアにあったのは長男ジュチ家のキプチャクハン国であった。この14世紀前半、キプチャクハン国は全盛期を迎えた。
ロシアの前身
モスクワ大公国
13世紀末、モスクワ大公国が成立。モスクワ大公国は、キプチャクハン国からロシアの支配権を認めてもらえる代わりに、毎年キプチャクハン国へ貢納を行った。
キプチャクハン国の衰退
14世紀半ば、チンギスハンから続く血統が途絶えた。貴族同士の争いの時代に入った。さらにヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)の流行がロシアまでやってきた。
14世紀後半には、東西に大帝国が成立した。ポーランド(西)とティムール(東)である。これらの要因によりキプチャクハン国は衰退へ向かう。
ウズベク=ハン
キプチャクハン国の全盛期
13年、ウズベク=ハンが即位。キプチャク=ハン国の全盛期を迎える。このころの政治課題は、イル=ハン国との戦いである。キプチャク=ハン国もイスラム教徒支持を得るため、イスラム教へ改宗を行った。首都サライでは、イスラム教の施設を作った。また、ジェノヴァやヴェネツィアとの交易も進めた。サライにはヨーロッパ式建築物も多数建築された。
イル=ハン国包囲網
キプチャク=ハン国は、カフカス地方をめぐり、イル=ハン国と交戦状態にあった。そのため、エジプトのトルコ人国家マムルーク朝と同盟を締結した。
キプチャクハン国の
衰退の始まり
16世紀後半のロシア ロシア帝国のシベリア開拓
イヴァン4世の内政
常備軍の整備
16世紀後半は、イヴァン4世(雷帝)の時代である。イヴァン4世は、皇帝権の強化を図っていた。常備軍を整備し、議会を設置した。対外戦争の敗戦で一時退位させられた。しかし、すぐに皇帝に復位。反皇帝派を粛清。皇帝権の強いロシアはこの時完成した。
農奴制の基礎を築く
このころ、ロシアは地主層と小作人(地主に地代を払った農業をを行うもの)に分かれた。当時の小作人は農奴と呼ばれた。イヴァン4世は農奴制を強化する法律を禁止した。農奴の移動の禁止と逃亡農奴をかくまうことを禁止した。
この農奴制に反発するものもいた。ロシア南部(黒海の北の穀倉地帯)の人々である。当時、彼らはコサックと呼ばれていた。この地域には、北部(モスクワなど)の農奴が多く逃げ込んでいた。
領土の拡張
東欧の国々
イヴァン3世は、皇帝権を強化しなければならない事情があった。これがリヴォニア戦争である。バルト海沿岸地域をめぐるポーランドとの戦争である。ポーランドは、北欧の大国スウェーデンを味方につけた。この時、イヴァン4世は、イギリスのエリザベス女王に支援を求めたが、これは実現しなかった。ロシア帝国はこの戦争に敗北した。
ポーランドは、このあとヤゲヴォ朝が断絶。選挙王制の時代に入る。
また、ポーランドを支援したスウェーデンは、17世紀前半のドイツ三十年戦争でさらに名声を上げる。
オスマン帝国
オスマン帝国は、ロシア南部のトルコ系のイスラム国家である。15世紀半ば、スレイマン1世の全盛期を迎えていた。
オスマン帝国は、農奴制強化でコサックが反乱を起こすとこれを支援した。そのため、イヴァン4世は一時退位することなった。
しかし、スレイマン1世が亡くなると、南ロシアのクリミアへ侵攻した。
コサックのシベリア開拓
イヴァン3世は、元キプチャク=ハン国(モンゴルの4ハン国の一つ)から分裂した2つの国を併合した。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国である。これにより、ロシアはカスピ海北部まで国土を拡張した。
また、コサックのイェルマークを使ってシベリア開拓を開始した。
リューリク朝の断絶
イヴァン4世が亡くなると、強い皇帝が現れなかった。まもなく、リューリク朝は断絶。貴族同士の内乱の時代となった。この内乱は17世紀初頭のロマノフ朝成立まで続く。