7世紀の東南アジア 義浄とシュリーヴィジャヤ王国

復習 8世紀の東南アジア

 ジャワ島(インドネシア)のシャイレーンドラ朝の全盛期である。シャイレーンドラ朝は半島部の各地へ侵攻。カンボジアを征服した。

 今回は、シャイレーンドラ朝と関係の深いスマトラ島(マレーシア)のシュリーヴィジャヤ王国を見ていきます。

7世紀の国際情勢

 7世紀(601年〜700年)、日本は飛鳥時代。聖徳太子や中大兄皇子が活躍した時代である。

 中国では、唐王朝の全盛期。日本も白村江の戦いで唐王朝に破れている。

 インドは、7世紀なかばにヴァルダナ朝が滅亡。ラージプートの戦乱の時代へ入っていった。

 中東では、イスラム教が成立。イスラム勢力により、ササン朝(イラン)が滅亡。その一部が唐の長安に亡命。唐の長安は国際色豊かな都になった。

 ヨーロッパでは、イスラム勢力の台頭で東ローマ帝国が縮小。ローマ教会は、東ローマ帝国に対抗するためゲルマン民族への不況を積極的に行った。その中心が修道会である。

義浄がマレーシア

唐の僧侶、義浄

 義浄は、7世紀後半の唐王朝の僧侶である。

 6世紀後半から7世紀にかけて、3人の僧侶がインドで修行を行った。法顕、玄奘と義浄である。義浄は、海路でインドを往復した。そのときに立ち寄ったのがマレーシアのシュリーヴィジャヤ王国である。このときのことを『南海寄帰内法伝』にまとめている。シュリーヴィジャヤ王国の様子がわかる貴重な史料である。

マレーシア) シュリーヴィジャヤ王国

 義浄が訪れたマレーシアは、シュリーヴィジャヤ王国の全盛期であった。シュリーヴィジャヤ王国は、多くの港市国家の連合体であった。その中心はスマトラ島南部のバレンバンである。

 11世紀、南インドのチョーラ朝が侵攻。これにより、シュリーヴィジャヤ王国の衰退が始まった。14世紀、ジャワ島のマジャパヒト王国によって、事実上滅亡。15世紀のマラッカ王国へつながる。

8世紀の半島部

北ベトナム 唐王朝の支配

 北ベトナムは、紀元前1世紀に漢の武帝が征服。以後、歴代中国王朝が支配した。

 唐王朝の時代、北ベトナムのハノイには、安南都護府が置かれた。都護府のトップは長安から派遣され、現地の族長を通じて支配した。日本人の阿倍仲麻呂も、安南都護府のトップを務めた。

南ベトナムとカンボジア 扶南の滅亡

 カンボジアは、北部の内陸部では農耕民族のクメール人が真臘(しんろう)を6世紀に建国した。一方、南部の沿岸部には扶南(ふなん)という港市国家があった。

 7世紀、クメール人国家の真臘が扶南を征服し、カンボジアを統一した。

 扶南は、紀元後1世紀末に成立した港市国家である。2世紀の漢王朝とローマ帝国の東西交易で栄えた。3世紀、漢王朝が衰退するとインド化が進んだ。

 真臘も、扶南の文化を受け継ぎ、インド風の文化が続いた。ヒンドゥー教を信仰し、サンスクリット文字に近いクメール文字を用いた。

 中部ベトナム(フエ)には、チャンパーという国が存在した。唐王朝の文献には、環王国として記述されている。

ミャンマー ピュー人とモン人

 ミャンマーでは、北部にピュー人、南部にモン人が居住していた。インド北東部のグプタ朝やヴァルダナ朝の影響を受け、上座部仏教を信仰していた。