15世紀の東南アジア 永楽帝とムスリム商人

復習 17世紀前半の東南アジア

16世紀後半の国際情勢

明王朝の衰退と後期倭寇

後期倭寇とは

 中国南部で行われた密貿易活動である。

 明王朝は、海禁政策で民間の貿易を統制していた。後期倭寇は、明王朝の許可のない貿易活動であった。

 密貿易業者は、南シナ海や東シナ海の島に拠点をおいていた。一部はフィリピンなどの東南アジアに拠点を持つものもいた。

 密貿易業者は、取締に対抗するため武装化した。かつて中国南部を襲った日本人海賊(倭寇)の格好をしたため、後期倭寇と呼ばれるようになった。

明王朝の外交政策

 明王朝期の貿易は、朝貢貿易である。明王朝が国王と認めたもののみ入港を認めた。足利義満が始めた勘合貿易もこの1つである。

 15世紀初頭の永楽帝の時代、朝貢貿易は盛んに行われた。日本(室町幕府)の足利義満や朝鮮(李朝)の世宗大王はこの時代の人物である。

 朝貢貿易が盛んになることで、長江下流域の工業化が進んだ。景徳鎮などの陶磁器の生産が盛んになった。これにより、稲作の中心地が超高下流域から長江中流域に変わった。

 しかし、永楽帝がなくなると財政難から朝貢貿易が縮小。東アジアの貿易は縮小していった。売上が落ちた中国南部は、後期倭寇になり密貿易を開始した。

ムスリム商人と東南アジアのイスラム化

現在のイスラム教国

 東南アジアは、イスラム教国が存在する。その代表がインドネシアとマレーシアである。ここでは、東南アジアがイスラム化していく過程を見ていきます。

インドのイスラム化

 16世紀以前、東南アジアは中国とインドの影響を大きく受けていた。東南アジアの歴史を見る前にこの2つの国の状況を見ていきます。

 当時のインドは、デリー=スルタン朝の時代である。デリー=スルタン朝は、北インドのデリーに都をおいたイスラム教の5王朝の時代である。13世紀から15世紀にかけて続いた。

鄭和の大航海

 イスラム化の動きは、中国でも進んでいた。モンゴル帝国の時代に多くのイスラム商人が中国を訪れるようになった。

 15世紀初頭、永楽帝の時代。イスラム教徒の鄭和が大航海を実施。

マラッカ王国

 マラッカ王国は、マレー半島とスマトラ島東部にまだがる国である。マラッカ海峡を抑えることで繁栄した国である。

 14世紀末に成立。15世紀初頭、鄭和(明王朝)の支援で、成長した。14年にイスラム教に改宗。これにより、多くのイスラム商人が東南アジアに進出した。

マジャパヒト王国の衰退

 マジャパヒト王国は、ジャワ島(インドネシア)を中心に栄えた東南アジアの国である。元や明への朝貢貿易で栄えた。15世紀後半になると朝貢貿易が縮小。これにより、マジャパヒト王国も次第に衰退した。

 そこに目をつけたのが、マラッカ王国へ進出したイスラム商人たちである。マジャパヒト王国から港町を次々奪っていき、ジャワ島に多くの地方政権を成立させた。16世紀に台頭する新マラタム王国やバンデン王国はこの1つである。

 これにより、マジャパヒト王国は、ジャワ島内陸部の小国になった。

アユタヤ朝の全盛期

アユタヤ朝

 15世紀のタイはアユタヤ朝の時代である。アユタヤ朝は、14世紀なかばに建国した上座部仏教の国である。港湾都市アユタヤでの交易で栄えた。

マラッカ王国を征服できず

 アユタヤ朝は、15世紀なかば、マラッカ王国への遠征を行った。しかし、イスラム商人の支援を得たマラッカ王国はこれを撃退した。

スコータイ朝の併合

 38年、アユタヤ朝は北方のスコータイ朝を併合した。

 スコータイ朝は、13世紀に成立したタイ人最初の王朝である。しかし、14世紀に南部でアユタヤ朝が成立。地方政権化していた。

カンボジアの征服

 31年、アユタヤ朝は、カンボジアのアンコールを征服。カンボジアは都をプノンペンに移した。以後、カンボジアは一地方政権になり、タイとベトナムに分割統治される。

 アンコール朝は、9世紀に成立したカンボジアの王朝である。12世紀に全盛期を迎えた。アンコール=ワットが建造されたのもこの時代でる。

 31年、クメール人(カンボジア人)がアンコールを離れると、かつての都アンコールはジャングルに覆われて消えていった。

ベトナム vs 永楽帝

南ベトナムへ

 15世紀なかば、明王朝が徐々に衰退。ベトナム政治は安定していく。

 この頃から、黎朝は南ベトナムのチャンパーへの侵攻を開始。71年、チャンパーの都ヴィジャヤを占領した。以後、ベトナム(黎朝)とタイ(アユタヤ朝)はカンボジアの宗主権をめぐり対立する。

 チャンパーは2世紀に成立。中国の文献では林邑や占城と記載されている。港湾都市としてインドとの交易で栄えた。

黎朝の成立

 ベトナムは06年、永楽帝の侵攻により明に征服された。明は直接統治を行い、明の文化を強制した。これにベトナムの人々は反発した。

 永楽帝がなく(24年)なると独立運動が激化。27年、明王朝は都ハノイを総攻撃。しかし、陥落することができず、28年に和議。明王朝はベトナム(大越国)の独立を承認。黎朝が成立した。一方で、ベトナム(黎朝)は明王朝に対して朝貢を行うことを約束した。

永楽帝のベトナム侵攻

 では、なぜ永楽帝はベトナムへ信仰したのであるか。その理由は、陳朝の滅亡になる。00年、ベトナムで内紛が発生。

陳朝の滅亡

 

永楽帝と鄭和の大航海

鄭和の大航海

マラッカ王国の成立