復習 1830年代の東南アジア
1820年代の国際情勢
19世紀前半は、市民革命が頻繁に起こった時代である。20年代は、正統主義の時代である。ウィーン体制のもとで協調外交が行われた。しかし、30年の七月革命をきっかけに正統主義は崩壊していく。
イギリス=オランダ協定
イギリス=オランダ協定とは
イギリス=オランダ協定とは、イギリスとオランダで24年に結ばれた東南アジアに関する協定である。その中身は以下の通りである。
- イギリスは、マレー半島を領有。オランダはスマトラ島とジャワ島を領有。マラッカ海峡を領有する。
- マラッカ島は、イギリス領とする。
- シンガポールは、イギリス領とする。
- ボルネオ島の分割は継続協議とする。
- イギリスとオランダは、相互にマラッカ海峡の自由航行を認める。
このときに決めた境界が現在のマレーシアとインドネシアの国境になる。
イギリスは、この協定により26年海峡植民地を成立させる。さらに、マラッカ海峡の自由航行権を獲得したことでアジア三角貿易が促進。40年のアヘン戦争につながる。
オランダは、植民地経営を強化。強制栽培制度を導入する。
オランダvsイギリス
オランダとイギリスは、17世紀前半にアジアへ進出した。アンボイナ事件でイギリスが敗北。イギリスは東アジアと東南アジアから撤退。ここからインド経営に注力。一方、オランダは東南アジアと東アジアの交易をほぼ独占した。鎖国政策下の日本も、オランダのみと交易を継続した。
ナポレオン戦争
転換点は、19世紀初頭のナポレオン戦争である。オランダ王国は、ナポレオンに征服される。東南アジアのオランダの拠点もナポレオンの支配下に入った。
イギリスは、ナポレオンと戦いながら、世界各地にあるおランド拠点を次々と奪っていった。長崎(日本)で起きたフェートン号事件もその1つである。
東南アジアも例外ではない。ジャワ島などが一時イギリスに占領された。
ウィーン会議
14年、ナポレオン戦争の講和会議が行われた。ウィーン会議である。イギリスはこの会議でジャワ島などのオランダから奪った拠点の返還を行ったが、見返りに一部の植民地をそのまま領有した。セイロン島(インド)や南アフリカなどである。
イギリス=オランダ協定もこの流れで始まった交渉である。
ジャワ戦争とオランダ
ジャワ戦争
21年、スマトラ島でパドリ戦争が勃発。ジャワ島の反オランダ派も勢いづいた。
24年、イギリス=オランダ協定でジャワ島がオランダに返還される。オランダは、植民地経営を重視するようになる。そのために農地改革を実施。地主層や農民から大きな反発を受けた。
25年、王位継承問題が発生。これをきっかけに、王族の1人を担いだ反オランダの反乱が発生。これがジャワ戦争である。
オランダは、パドリ戦争とジャワ戦争のWパンチで疲弊。31年、ベルギー独立を容認することになった。
30年、ジャワ戦争はようやく鎮圧。農地改革を再び実施。これが強制栽培制度である。
パドリ戦争
パドリ戦争とは、21年にスマトラ島南部で起きた反オランダ植民地化の反乱である。
この戦争を主導したのは、パドリ派と呼ばれるイスラム教の改革派の人々である。かれらは、聖地メッカの巡礼の際に、ワッハーブ派の影響を受けた人々である。
21年にパドリ戦争が起きると、スマトラ島へ波及。25年ジャワ戦争が始まった。
パドリ戦争は長期化。37年にようやく鎮圧された。
イギリスとビルマ戦争
第1次ビルマ戦争
ビルマ戦争は、19世紀におきたインド(イギリス)とミャンマー(コンバウン朝)との3度に渡る戦争である。最初の戦争は20年代に起きた。この戦争により、ミャンマーのコンバウン朝は滅亡。イギリス領インドに併合される。
当時、ミャンマーはコンバウン朝の時代である。一方、イギリス東インド会社は、インド北西部のベンガル地方に拠点をおいていた。その東隣がミャンマーである。
ミャンマーは、アッサム地方を占領。イギリス東インド会社はこれに激怒。24年、ミャンマーへ侵攻した。
26年、ミャンマーは、イギリス東インド会社に敗北。占領地を変換するとともに多額の賠償金が課された。国王はこれにより、病弱になり廃位。多額の賠償金と戦費によって、ミャンマーは財政難になる。
マレーシア
19世紀後半、イギリスは原住民のスルタンからペナン島を獲得する。05年、ラッフルズが東南アジアへ進出。ペナン島に商館を建てる。19年、ラッフルズはシンガポールを探検。
24年、イギリス=オランダ協定で、マレー半島とマラッカ島を獲得。
26年、ペナン島、シンガポールとマラッカ島の3つをまとめた海峡植民地が成立する。
オーストラリア
オーストラリアは、ジャワ島、ニューギニア島の南にある大陸である。
イギリスがオーストラリアに入植したのは、18世紀後半のクックの探検の時代である。当初はアメリカに代わる流刑植民地の取り扱いであった。
オーストラリアで牧羊業が盛んになり、植民地の重要性が高まった。23年、流刑植民地の扱いを取りやめ、一定の自治を認めた。29年、イギリスはオーストラリア全土の領有を宣言した。