1830年代の東南アジア ジャワ島の強制栽培制度

復習 1840年代の東南アジア

1830年代の国際情勢

 19世紀前半は、市民革命が頻繁に起こった時代である。その革命は、フランスがきっかけになることが多かった。

  • 30年の七月革命
  • 48年の二月革命

 30年代は、フランスの二月革命で始まった。

オランダ強制栽培制度

強制栽培制度

 強制栽培制度とは、政府が直接農場を経営。低賃金で農民を働かせて、商品作物(コーヒーやサトウキビなど)を生産。高価格で輸出した。

 一部の教科書では、強制栽培制度ではなく政府栽培制度と記述しているものもある。

ジャワ戦争

 20年代から30年代のインドネシアは戦乱の時代であった。ジャワ島では25年から30年にかけてジャワ戦争が勃発。また、スマトラ島南部では、パドリ戦争が展開されていた。そのため、インドネシアの植民地経営を行うオランダ東インド会社は、大幅な財政難であった。

 30年、ジャワ戦争に勝利したオランダ東インド会社は、ジャワ島で強制栽培制度を導入。これで財政難を打開しようとした。

30年頃のオランダ

 この時、オランダ本国もインドネシアの戦争に援軍を送る余裕はなかった。それがベルギー独立戦争である。

 ベルギーは、オランダの南部にある国で、ローマ=カトリックを侵攻していた。オランダ独立後は、同じローマ=カトリックのオーストリア領になっていた。15年のウィーン会議で、プロテスタント国のオランダ領になった。

 30年、フランスで7月革命が勃発。翌8月、ベルギーはお乱あからの独立を宣言した。これで始まったのが31年にはイギリスなどがベルギーの独立を承認。39年のロンドン会議で、オランダもベルギーの独立を承認した。

オランダの東南アジア統治

 では、オランダはどのようにして東南アジアを統治していったのであろうか。

 オランダが東南アジアに進出したのは、17世初頭のことである。ジャワ島のジャカルタ(当時はパタヴィアと呼ばれていた)は東南アジア最大の貿易港として栄えていた。

マニラ開港

 34年、スペインはマニラを開港した。それまで、マニラにはスペイン船しか入港できなかった。しかし、開港以降は他の国も入港ができるようになった。

 これは、イギリスやアメリカの要求によるものであった。