1840年代の東南アジア イギリスとブルネイ

復習 1850年代の東南アジア

 50年代は、東南アジアの東西でと大きな変革があった年である。東の中国では、アロー戦争で清王朝が英仏連合軍に敗北。西のインドでは、インド大反乱が発生。ムガル帝国が滅亡した。

 東南アジアも激動の時代である。ベトナムでは、フランス(ナポレオン3世)が進出。ミャンマーでは、コンバウン朝がイギリス(イギリス東インド会社)に敗北した。

1840年代の国際情勢

 19世紀前半は、市民革命が頻繁に起こった時代である。その革命は、フランスがきっかけになることが多かった。

  • 30年の七月革命
  • 48年の二月革命

 40年代、七月革命と二月革命の中間の時代に当たる。

イギリスとボルネオ島

ブルネイ王国

 ボルネオ島は、東南アジア諸島部にある島である。北部は、ブルネイ王国とマレーシア領(旧イギリス領)があり、南部は、インドネシア領(旧オランダ領)がある。

 ブルネイ王国は、イスラム教のスルタン国である。会場交易によって栄えた。18世紀後半には、イギリス東インド会社との交易交渉が始まる。19世紀に入ると、ブルネイ王国は原住民の反乱に悩まされることになる。

アヘン戦争

 19世紀前半のイギリスは、東南アジアをどのように見ていたのであろうか。

 19世紀前半は、アジア三角貿易の時代である。イギリスは、綿織物などの工業製品をインドへ販売。インド産アヘンを中国(清王朝)へ販売。中国産のお茶をイギリスに輸入した。

 インド産アヘンは、東南アジアの中国人労働者の間で流行した。彼らは東南アジアの鉱山等で働いていた。それまで、鉱山労働者は奴隷によって賄われていた。しかし、19世紀に入ると、ヨーロッパで奴隷制廃止の動きが始まった。これにより、鉱山労働者は、奴隷から中国やインドからの移民に替わっていった。

 33年、東インド会社の中国貿易独占権を廃止。民間企業もアヘン輸出に参入。アヘンの輸出が拡大した。

 中国南部では、アヘン中毒患者が急増。社会問題化していった。清王朝では度々アヘン禁止令を出したが効果がなかった。39年、林則徐を派遣。徹底的なアヘン貿易の取締を実施。40年のアヘン戦争につながる。

探検家ブリックとブルネイ王国

 イギリスは、24年のオランダとの協定でボルネオ島北部を獲得した。しかし、イギリスはそれに興味はなかった。

 39年、探検家ブリックが登場。ボルネオ島北部の探検が始まる。

 同じ頃、ブルネイ国王(スルタン)は、原住民の反乱に悩まされていた。そこで、探検家ブリックに原住民の反乱鎮圧を依頼。探検家ブリックはこれに成功。探検家ブリックはこれによりブルネイ国王から領土を受け取る。これが現在のマレーシア領北ボルネオである。

奴隷問題で対立

 イギリスは、1807年に奴隷貿易を禁止。1833年には奴隷制度そのものが廃止された。これはイギリス領の植民地でも適用された。一方、ブルネイ王国は奴隷の輸出が収入源であった。

 領土争いや奴隷制の問題で、探検家ブリックとブルネイ国王が対立。探検家ブリックは46年にサラワク王国を建国。ブルネイ王国から独立し、自ら国王になった。

イギリスとミャンマー

パーマストン

インド大反乱

第2次ビルマ戦争

タイの不平等条約

治外法権

ラーマ4世

アロー戦争

オーストラリア

ゴールドラッシュ