前回の復習 14世紀の中国
14世紀の中国は、元王朝の時代である。元王朝が紅巾の乱で滅亡。朱元璋によって明王朝が成立した。
13世紀の国際情勢
13世紀は、モンゴルの世紀である。モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を征服した。
日本は、鎌倉時代。承久の乱をきっかけに武家政権が本格化。13世紀後半に蒙古襲来が起こる。
ヨーロッパでは、十字軍運動が展開されていた。
モンゴルの歴史
初代ハーン チンギス
06年、テムジンがモンゴルを統一。チンギス=ハンと称す。
チンギス=ハンは、中国ではなく陸上交通の要所である中央アジアへ侵攻した。
- 18年、トルコ系ナイマンを征服
- 20年、トルコ系ホラズム朝を征服
- 27年、西夏を征服
27年に崩御。
チンギス=ハンには、4人の後継者がいた。ジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家とトゥルイ家である。
2代皇帝 オゴタイ
27年、チンギス=ハンが崩御。
29年、オゴタイ(オゴタイ家)がハンに即位。ジュチはすでに亡くなっており、チャガタイは、中央アジアにチャガタイ=ハン国を建国していた。
34年、金(中国北部)を征服。
35年、カラコルムに都を置く。
36年、バトゥ(ジュチ家)のロシア遠征
37年、ワールシュタットの戦い
41年、オゴタイが崩御。バトゥのヨーロッパ遠征が中断。
グユウ・モンケ
46年、グユウ(オゴタイ家)がハンに即位。
46年、ローマ教皇の使者プラノ=カルピニがカラコロムに到着。
48年、グユウが崩御。
51年、モンケ(トゥルイ家)が即位。2人の弟を東西に派遣した。フラグ(モンケの弟)を中東へ、フビライ(モンケの弟)を中国へ遠征させた。
フビライは、中国内陸部のチベット・大理国を征服。
54年、フランス国王の使者ルブルクがカラコロムに到着。
58年、フラグが、アッバース朝を滅ぼす。
59年、フビライが高麗を服従させる。
元王朝の歴史
北京を占領
60年、フビライが即位。この時、モンゴルが緩やかに分裂し始めた。
- ロシアのジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
→ジュチ家のバトゥが建国 - 中東のフラグ・ウルス(イル・ハン国)
→トゥルイ家のフラグ(フビライの弟)が建国
ここに、チャガタイ家のチャガタイ・ウルスを加えた3ハン国が成立した。一方で、オゴタイ家のハイドゥが中央アジアでフビライに対して抵抗運動を展開していた。フビライは、西のハイドゥと東の南宋の挟み撃ちを受けていた。
同じ頃、高麗(朝鮮)で親モンゴルの政権が成立。モンゴルの属国になった。また、チベットも属国になった。
64年、大都(現在の北京)に遷都。
66年、ハイドゥの乱。ハイドゥは、オゴタイ家である。
70年、高麗(朝鮮)で反乱(三別抄の乱)が発生。
71年、国号を元に変更。
73年、高麗(朝鮮)の反乱を鎮圧。
74年、日本遠征。
75年、マルコ=ポーロ、大都に到着。
76年、宋王朝(中国南部・南宋)が滅亡。
81年、第2回日本遠征。
87年、パガン朝に侵攻。
日本や東南アジアへ侵攻を実施したが、その多くは失敗に終わった。ただ、東南アジアの政治変動の要因になった。
モンゴル軍はなぜ強かったのか?
軍事
モンゴルを始めた騎馬民族は、騎馬を使った圧倒的な機動力を持つ。それが、中国の歴代王朝に脅威を与え続けた。
さらに、チンギスハンは、全遊牧民を1000戸単位に編成した千戸制を敷いた。
政治
元王朝は、人種によるピラミッド構造が構築された。モンゴル人を頂点に、色目人(中央アジア人やイラン人)が財務を担当した。その下に漢人(華北の人々)、南人(江南の人々)がついた。
武人や実務官僚は重要視された。科挙は停止され、儒学の勉強をした士大夫が官僚として活躍する機会はなかった。
経済
モンゴル帝国は、商業を重視した。チンギスハンは、豊かな中国ではなく、陸上の交易拠点である中央アジアを先に抑えた。
東西の陸上交易路の整備を最初におこない、さらに駅伝制を整備した。金を滅ぼすと、北京と江南を結ぶ運河を整備。フビライは、運河の終点にである北京に都(大都)を移した。
貨幣も整備。銅銭や金・銀を使っていた。さらに、宋王朝の時代から紙幣が登場した。宋王朝の時代には、民間で交子・会子の流通が始まった。元王朝は、政府が交鈔を発行。新たな財源とした。
中国の王朝
宋王朝
宋王朝は、10世紀なかばに成立した漢民族の王朝である。12世紀なかばの靖康の変で中国北部を金王朝に奪われる。
この時期、江南は経済的に発展。陶磁器の景徳鎮の製造がはじまったのも宋王朝の時代である。商業も発達。貨幣経済が浸透した。宋銭は日本でも使われるようになった。また、交鈔の前身である世界初の紙幣である交子(こうし)がりゅうつうしたのも宋王朝の時代である。
67年に、フビライが侵攻。
金王朝
金王朝は、清王朝を建国した満州族(女真族)の国である。満州族は、モンゴル系の遼の支配を受けていた。12世紀に遼から独立。遼を滅ぼし、漢民族の宋王朝を南に追いやった。
34年、オゴタイハンの時代に滅ぶ。
西夏
西夏は、11世紀に成立したチベット系の国である。宋王朝と慶歴の和約を結んでいた。
27年に、チンギスハンによって滅ぶ。
元王朝の文化
特色
元王朝の文化の特徴は、以下の通りである。
- 儒教文化の低下(科挙の停止による)
- 庶民文化の発展(宋王朝から始まった)
- チベット仏教の保護
- 国際色豊か
宗教)チベット仏教
チベット仏教は、大乗仏教の一派である。7世紀に成立したチベット(吐蕃)の保護で広まった。
13世紀、フビライがチベットを征服すると、チベット仏教を保護した。特にパスパを中心としたチベット仏教の改革派である紅帽派を保護した。これにより、多くのモンゴル人がチベット仏教を信仰。チベットから伝わったパスパ文字が使われるようになった。
また、元王朝は宗教に寛容であった。これにより、儒教以外の宗教も広まった。中国固有の道教や色目人によってイスラム教も広まった。
また、ローマ教皇の使者も暖かく迎えた。
文字)パスパ文字
モンゴル人の多くは、チベット文字をベースとしたパスパ文字が使われた。
士大夫は文化の世界へ
宋王朝の時代、文化の中心は、士大夫と呼ばれる人たちであった。彼らは、高級官僚になるために、儒学を学んだ。
宋王朝が滅亡すると、士大夫は、高級官僚への道が閉ざされた。彼らは、文化で名を上げるようになった。その一例が、原末四大家である。
文学)庶民文学
元王朝は、庶民の統制をあまりしなかった。そのため、庶民文化が花開いた。歌劇が流行。その台本となる多くの元曲が作られた。
『水滸伝』『西遊記』、『三国志演義』の原型もこの時代に作られた。
ちなみに、同時期の日本の鎌倉文化も庶民が中心であった。
科学工芸 イスラム科学の流入
モンゴルの時代に、イスラム教の科学が伝わった。イスラム天文学を取り入れた授時暦はこの時代に成立した。