17世紀前半の中国 明王朝 満州人によって北京を追われる

前回の復習 17世紀後半の中国

 17世紀後半は、康熙帝の時代。鄭氏台湾を滅ぼし、中華を統一。清王朝を中心とした貿易体制が始まった。

17世紀前半の国際情勢

 17世紀前半、日本では徳川家康が江戸幕府を開いた。

 ヨーロッパでは、全ヨーロッパと巻き込んだドイツ三十年戦争が起きた。

 40年の寛永の大飢饉が発生。17世紀の危機が発生。日本では、島原の乱や由井正雪の乱が発生。フランスではブロンドの乱、イギリスでは清教徒革命(イギリス革命)が起きた。

明王朝

豊臣秀吉の朝鮮出兵

 明王朝は、北慮南倭で16世紀から衰退に入っていた。16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮出兵。明王朝は、朝鮮半島へ援軍を派遣した。豊臣秀吉軍を撃退できたものの、多くの財政負担が生じた。

東林派 vs 非東林派

 この時期の明王朝は、どのような状況であったであろうか。

 72年に万歴帝が即位。20年まで在位した。17世紀に入ると、宦官(後宮<皇帝のプライベート空間>に務める役人)の発言力が高まった。これにより、宮廷経費が増大した。これが、軍事費とともに明王朝の財政を圧迫した。

 そのような中、反宦官の改革派が登場した。江蘇省(上海の北)の東林書院に集まったことから、東林派と呼ばれた。中心人物は、顧憲成である。

 これにより、東林派と宦官の対立が始まった。これにより政治が低迷した。

李自成の乱と満州族の侵入

 明王朝は、度重なる戦争と宮廷費の増大で財政難になった。そのため、明王朝は増税を行った。

 31年、増税に苦しむ農民が反乱を起こした。その中心人物が、李自成である。これが李自成の乱の始まりである。

 40年、寛永の大飢饉が発生。農民反乱が加速する。44年に西安(かつての長安)が反乱軍によって陥落。北京への進軍を開始した。

李自成が北京を占領

 ただ、北京の軍隊は、2手に分ける必要があった。1つは、西安から来た反乱軍。もう一つは、北から進軍する清王朝軍である。皇帝は、敗北を確定。自害した。

清王朝

ヌルハチ

 1558年に生まれる。父と祖父は、明王朝軍によって、殺害。ヌルハチは、明王朝に強い恨みを持っていた。

 1583年に挙兵。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、日本軍の侵攻を受けたが、撃退した。13年に女真族を統一した。そして、16年正月、後金を建国した。

 18年、明王朝に宣戦布告。翌19年、明王朝軍に勝利した。25年、瀋陽(しんよう、のちの奉天)に遷都した。

 26年、万里の長城の山海関を攻撃。明王朝軍は、キリシタンからもらった大砲を使って撃退した。明王朝軍を指揮していたのは、呉三桂であった。同年、ヌルハチは亡くなった。

ホンタイジ

26年、ホンタイジが即位。

翌27年、朝鮮に侵攻。当時の朝鮮は、明王朝の援軍で日本軍を撃退したばかりである。金王朝からの朝貢要求に受けれるか、明王朝とともに、金王朝と戦うかを悩んでいた。

32年、モンゴルへ侵攻。内モンゴルを征服。

36年、朝鮮へ2度目の出兵。朝鮮は、清王朝への属国になった。明王朝は、李自成の乱の最中で、朝鮮に援軍を送る余裕はなかった。

同36年、ホンタイジは国名を金から清へ変更した。

38年、征服地を管理する理藩院を設置。

43年、ホンタイジが死去。

北京入城

 翌44年、李自成の反乱軍が北京を占拠。清王朝は、山海関を守る呉三桂を味方にして、北京に入城した。

 呉三桂ら、漢人武将に対して南部に領土をあたえ藩王とした。

 61年、康熙帝が即位。67年に康煕帝の親政が始まる。ここから清王朝の全盛期を迎える。