前回の復習 1860年代の中国
1870年代の中国
1850年代の国際情勢
日本は、68年の大政奉還で江戸時代が終わる。
ヨーロッパでは、フランス皇帝ナポレオン3世の時代。メキシコ出兵などが行われた。しかし、普仏戦争でドイツに敗れると、第二帝政は終わった。
太平天国の乱
アヘン戦争
42年、清王朝はアヘン戦争に敗北。清王朝は多額な賠償金を支払った。そのため、清王朝は増税を実施した。これにより、国民の生活は困窮した。
香港近郊で始まる
このころ、香港近郊は、太平天国という宗教が流行った。
香港は、清王朝時代の唯一の貿易港である。アヘン戦争で、イギリスに割譲される。
この地域では、19世紀に入ると、イギリスによって、インド産アヘンが流行。アヘン戦争が終わるとこれに拍車がかかった。これにより、治安が悪化していた。
太平天国は、洪秀全を指導者として、キリスト教をベースにした宗教である。儒教を否定した。さらに、キリスト教同様に、偶像崇拝を否定。これにより、民間信仰の偶像を次々破壊した。
咸豊帝即位
51年、道光帝(20年即位)が崩御。咸豊帝が即位した。60年、アロー戦争で北京を占領。翌61年、失意のうちになくなった。
南京占領
53年、太平天国は、長江流域まで拡大した。南京を占領すると、拠点を香港近郊から南京に移動。南京に政府をたて、清王朝からの独立を宣言した。
アロー戦争
概要
アロー戦争は、太平天国の乱で混乱する清王朝に対して、56年にイギリス・フランス連合軍が侵攻した戦争。60年のクリミア戦争で集結する。
政治の中枢が女性になると、革新的な政策が進められていく。太平天国の乱の鎮圧で活躍した曽国藩や李鴻章らが北京政府の要人になっていく。
クリミア戦争
53年、ヨーロッパでクリミア戦争が勃発。イギリス・フランス連合軍とロシアの間で戦争が展開された。
戦場は、東アジアまで広がった。イギリスは、アヘン戦争で獲得した香港などを拠点に、極東に進出したロシアに侵攻した。
この戦争は、2つの影響がでた。
- イギリスとフランスの関係が、良好になった。
- ヨーロッパ諸国は、東アジア(日本、清王朝)への関心が高まった。
排外的な清王朝
清王朝は、50年に咸豊帝が即位すると、排外的な雰囲気が高まった。
また、広州など中国南部では、太平天国が占領。特に広州では排外運動が展開されていた。
アロー戦争
56年3月、クリミア戦争が講和。同年10月、アロー号事件をきっかけにアロー戦争が始まった。フランスは、広西省でフランス人宣教師が殺害。これを理由に、フランスも派兵した。
翌57年10月、英仏両軍が広州を占領。イギリス・フランス連合軍は、北方の北京へ進軍した。
天津条約
翌58年5月、天津の砲台を占領。これにより、清王朝の北京政府は降伏。翌6月天津条約を締結した。
条約の内容は、以下の通りである。
- 外国公使の北京条約を認める。
- 清王朝は、対等外交が認める。
- 行使は、広州などの地方長官ではなく、中央政府と直接交渉が行える。
- 清王朝は、総理各国事務衙門を設置した。
- キリスト教の布教を認める。
- 16世紀前半、典礼問題をきっかけにキリスト教を禁止
- 戦争のきっかけの1つがフランス人宣教師殺害事件
- ナポレオン3世は、ローマ教皇と良好な関係
- 外国人の内地(居留地以外)での旅行・通商の自由
- 開港地の増加と、長江流域の4都市での開市
- 開港場は、太平天国の占領地であったので、実際の開口は、太平天国の乱の鎮圧後となった。
- 賠償金の支払い
ロシアの介入
北京条約
天津条約が締結されると、和平派が失脚。主戦派が台頭した。これにより、清王朝は天津条約を反故にしようとした。
60年、天津条約の批准書交換のため、英仏の使節が北京を訪問。しかし、清王朝は、大砲を発砲し使節を追い返した。
イギリスとフランスは、北京に軍隊を派遣。10月、北京を占領。咸豊帝(かんほうてい)と西太后(咸豊帝)は、熱河へ逃亡。イギリス・フランス両軍は、北京郊外の円明園を焼き討ちにした。
円明園は、16世紀初頭に康煕帝が建設した西洋式庭園である。円明園は、破壊された状態で現在も文化財として保管されている。
10月、北京条約を締結。以下の条項が追加された。
- 賠償金の増額
- イギリスに九竜半島南部を割譲
- 天津の開港
- 中国人の海外渡航の解禁
- 東南アジアで華僑が対等
- アメリカにわたり、大陸横断鉄道の建設労働者や金山の鉱山労働者になる中国人も増加した。
- 開港場以外でのキリスト教布教を認める
日本への影響
日本の有力政治家たちは、アロー戦争の結果を注意深く観察していた。
58年、清王朝がアロー戦争に敗北。井伊直弼は違勅の状態で日米修好通商条約を締結。朝廷もその後、これを追認した。