1860年代の中国 清王朝 北京条約と太平天国の乱

前回の復習 1870年代の中国

 1870年代の中国

1860年代の国際情勢

 日本は、68年の大政奉還で江戸時代が終わる。

 ヨーロッパでは、フランス皇帝ナポレオン3世の時代。メキシコ出兵などが行われた。しかし、普仏戦争でドイツに敗れると、第二帝政は終わった。

北京条約

アロー戦争

 アロー戦争は、清王朝とイギリス・フランス連合軍で行われた戦争である。

 56年に勃発し、58年の天津条約で停戦した。

北京条約

 58年、天津条約を締結。しかし、主戦派が台頭。天津条約の批准を拒否。天津条約の批准に来た英仏の全権に発砲。英仏連合軍は北京を占領。離宮の円明園(えんめいえん)を焼失。清王朝は北京条約を締結した。条約の内容は以下の通りである。

  • 800万両の賠償金(天津条約では600万両)
  • 天津条約では、漢口など長江流域10港を開港。北京条約では北京に最も近い港湾都市の天津も開港することになった。
  • 外国人の内地旅行権を認める
  • 外国公使の北京常駐を認める
  • キリスト教の布教権を認める
  • 中国人の海外渡航を認める
    • 宛m
  • イギリスは、南京条約で獲得した香港に加えて、九竜半島南部を獲得。(返還義務なし)
  • アヘンの合法化

総理各国事務衙門

 北京条約で、外国公使が北京に常駐。清王朝は、外交交渉の窓口として、総理各国事務衙門を設置した。

洋務運動へ

 アロー戦争後半の主戦場は、北京になった。この戦争によって、北京にいる政府要人も危機感を持つようになった。これが洋務運動につながる。

太平天国の乱の滅亡

太平天国

 太平天国は、アヘン戦争直後の50年に始まった中国南部を中心とした大反乱である。洪秀全が指導者で、翌51年には南京を都にして独立した。太平天国時代、長江沿岸の南京は天京と呼ばれた。

李鴻章の淮軍

 最初は、八旗とよばれる清王朝の正規軍が鎮圧に向かった。しかし、鎮圧できずにいた。

 そのあと、向かったのは漢民族で地元の有力者が組織した私兵軍団に変わった。曾国藩の湘軍や李鴻章の淮軍がその代表である。

英米の常勝軍

 北京条約には付帯条項がついていた。太平天国の乱の鎮圧である。60年にアメリカのウォードが参戦。ウォードがなくなると、イギリスのゴードンが引き継いだ。

 ちなみに、ゴードン将軍は、太平天国の乱を鎮圧すると、エジプトのマフディの乱鎮圧のために、アフリカへ向かった。

太平天国滅亡

 64年6月、

同治の中興と洋務運動

摂政 西太后

 60年、清王朝は北京条約を締結。翌61年、咸豊帝(50年即位)が死去。幼い同治帝が即位。同治帝の時代は1875年まで続いた。

 クーデターで西太后が政治の実権を握る。西太后は、前皇帝の咸豊帝の后で、現皇帝の同治帝の母親である。1908年まで生きた。

 政治の中枢が女性になると、革新的な政策が進められていく。太平天国の乱の鎮圧で活躍した曽国藩や李鴻章ら漢人官僚が北京政府の要人になってく。

同治の中興

 西太后は、排外主義者を追放。欧米と良好な関係を築いた。

 太平天国など反乱が鎮圧。内外の状況が安定した。この時代を「同治の中興」という。

洋務運動