1920年代の中国 中華民国 国民党と共産党と軍閥と日本

前回の復習 1930年代の中国

 1930年代の中国。満州事変が勃発。ここから、泥沼の日中戦争に突入していく。

1920年代の国際情勢

 20年代は、第一次世界大戦と第2次世界大戦の間の戦間期と呼ばれる時代である。世界は、つかの間の平和を享受していた。特にアメリカは、黄金の20年代と呼ばれる時代に入っていった。

 日本は、大正時代。関東大震災がおき、深刻な不況下にあった。

中国の主要な勢力

国民党

 19年、孫文らによって国民党が結成された。

 20年11月、広東の軍閥と手を住むんで、中華民国広東政府を再建。翌21年4月、孫文が臨時大総統(議会と関係なく就任した大総統)に就任。

 翌22年6月、広東の軍閥が軍事クーデター。孫文は、広東を追い出された。孫文が逃れた先は、上海である。

 23年2月、国民党は、中小の軍閥を味方につけて、広州の軍閥政府を妥当。国民党政府が復活した。

共産党

 20年、フランス共産党結成。翌21年、陳独秀らが中国共産党結成。国民党も、共産党も小さな勢力であった。

 国民党は、共産党を受け入れた。国民党は、親ソ的な政策を取っていた。

軍閥

 中華民国の勢力圏は、南京の勢力圏のみであった。中国の大部分は、軍閥が勢力争いをしていた。

 清王朝末期、正規軍はほぼ機能不全になっていた。代わりに台頭したのが有力者を中心とした私兵軍団である。10年代までは、李鴻章や袁世凱が総元締めであった。

 しかし、袁世凱がなくなると、各地の有力者が独自の行動をとるようになった。

外国勢力

 日露戦争でロシアが規模を縮小。第一次世界大戦でドイツが撤退。フランスも規模を縮小していた。

 中国南部はイギリス・アメリカの勢力圏と、中国北部は日本の勢力圏となった。

ワシントン会議と九カ国条約

アメリカ主導のワシントン会議と九カ国条約

 21年、アメリカ主導で国際会議が招集された。ワシントン会議である。この会議で中国の問題も話し合われた。

 翌22年にまとめられたのが九カ国条約である。中華民国とアメリカの他、国際連盟の常任理事国のイギリス、フランス、イタリアと日本、中国に利権を持つオランダ、ベルギーとポルトガルが参加した。

ジョン=ヘイの門戸開放宣言

 アメリカは、90年代後半の中国分割に出遅れた。99年、アメリカは、中国に進出した国々に対して、門戸開放・機会均等と領土保全を提唱した。これが門戸開放宣言である。

 しかし、多くの国はこれを無視した。

 ただ、第一次世界大戦が終結すると、アメリカの門戸開放宣言を無視することはできなくなった。

山東半島と21か条の要求の破棄

 九カ国条約で大きなテーマは、ドイツの勢力圏であった山東半島の取り扱いにあった。

 第1次世界大戦中、日本の大隈内閣と中華民国の袁世凱政権の間で「21か条の要求」を締結。袁世凱政権は、日本の山東半島の権益を容認した。

 17年11月、アメリカは、日本の山東半島の権益を「石井・ランシング協定」で容認した。

 19年のヴェルサイユ条約でも、日本の山東半島の権益が承認された。

第一次国共合作 vs軍閥

第一次国共合作

 24年1月、第一次国共合作。広州で開催された中国国民党一全大会で決定された。共産党員の国民党の参加が容認された。

孫文の死去

 25年、孫文が死去。広州で広州国民党政府が樹立。8月、上海の日本資本の企業で労働争議。共産党を中心に外国資本に依存する軍閥に軍隊を派遣した。これが北伐である。

広州国民政府

上海クーデターで蒋介石国民党政府

5・30労働争議

北伐へ

蒋介石氏の上海クーデター

蒋介石

上海クーデター

 27年3月、蒋介石が上海に入る。蒋介石は民族資本の浙江財閥と結びついて、軍事クーデターを実施。共産党を排除した国民党政府を樹立した。

 国民党は、汪兆銘氏を中心とした武漢政府と蒋介石の南京政府の分裂状態になった。

満州事変へ

南京国民党政府

日本の中国政策と山東出兵

 27年、日本で政権交代。山東出兵が実施される。北伐を警戒していたのは、日本だけでなかった。上海に進出したイギリスとアメリカである。

 イギリスとフランスは、ある人物に託した。蒋介石である。国民党政府軍の総司令官であった蒋介石である。蒋介石氏は、クーデターを実施。

 張作霖爆殺事件。

 息子の張学良は、国民党に支援を求める。

 69年3月、珍宝島をめぐりついにソ連と武力衝突した。8月には、新疆ウイグル自治区でも武力衝突が起こった。

蒋介石国民党 vs 毛沢東共産党 vs 日本軍

 上海政府は、通貨の統一を実施。これにより、地方の軍閥が衰退した。