18世紀後半のエジプト ナポレオンとムハンマド=アリー

1800年代のエジプト

1800年代のエジプトは、ナポレオンの占領をうけたが、その後独立。内乱の時代を経て、ムハンマド=アリーの時代に入っていく。

 さて今回から、ムハンマド=アリー以前のオスマン帝国のエジプトの支配の歴史を見ていきます。

オスマン帝国とエジプト

目の上のたんこぶ

 16世紀以降、エジプトはオスマン帝国の支配下にあった。しかし、ムハンマド=アリーの登場前からエジプトでは反乱が絶えなかった。

エジプトの階級構造

 エジプトは、3つの階層に分かれていた。総督(ワーリー)、徴税請負人(ベイ)と平民である。

エジプト総督

 エジプトのトップは総督(ワーリー)である。総督はオスマン帝国から派遣された。でも政治の実権は徴税請負人(ベイ)が握っていた。しばしば、総督と徴税請負人たちで対立が起きていた。

ベイ(マムルーク)

 エジプトでは、ティマール制は導入されてなく、エジプトの税金はイスタンブルへ流れた。エジプトで徴税業務に当たったのが徴税請負人(ベイ)であった。

 徴税請負人(ベイ)は、エジプト各地に設置された。現地の人と長く接しており、エジプト政治の実権を握るようになった。

アラブ人

 エジプトの人々は、アラブ人である。ムハンマド=アリーは、アラブ人を味方につけてエジプトの実権を握るようになる。

ナポレオン遠征

フランスの支配

 98年7月、フランスのナポレオンがエジプトへ侵攻した。イギリスとインドの交易ルートを遮断するためである。名目上の理由は、エジプトからベイを一掃しオスマン帝国の権威を回復することにしていた。

 フランス軍は、大砲などの近代兵器によってベイを中心としたエジプト軍に完勝した。これにより、アラブの人々はトルコ人が大したことがないことを認識した。それが、ムハンマド=アリー朝の成立につながる。また、この戦争に参加したムハンマド=アリーは、近代兵器の重要性を認識。軍隊の近代化を進めた。

 ナポレオンは、カイロを制圧すると議会を設置した。しかし、実態はナポレオンの政策を追認するだけの組織であった。

 98年8月、イギリス軍がエジプトに到着。エジプトのフランス軍を壊滅させた。さらに、エジプト南部(上エジプト)でフランス軍が苦戦。これにより、エジプトでのフランス軍の信頼は失墜した。

 98年10月、アズハル大学を拠点にしたエジプト人の反乱。その要因は、エジプトでの増税であった。この反乱は鎮圧されたが、エジプトの宗教的権威であるアズハルを攻撃したことでナポレオンはフランスでの信頼を失った。

 ナポレオンは、イギリスから地中海の制海権を回復するためにシリアへ侵攻。99年6月、エジプトからシリアへ撤退した。

 エジプトは、再びフランスに対して反乱を起こす。これは鎮圧された。7月、オスマン帝国はエジプトから完全に撤兵した。

 同じ頃、フランス本国での戦況が悪化。ナポレオンはフランスへ戻った。ブリュメール18日のクーデターにつながる。一方、残ったフランス軍は2年間防戦した。しかし、イギリス・オスマン帝国連合軍に敗れ、フランスが撤退した。

ナポレオンとムハンマド=アリー

 実は、ムハンマド=アリーとナポレオンは同じ69年生まれである。ムハンマド=アリーは、バルカン半島のマケドニア(北マケドニアとギリシャ北部)に生まれた。貧しい家庭に生まれ、アルバニア人傭兵部隊に参加した。アルバニアはバルカン半島南西部の国である。

 このアルバニア傭兵部隊は、98年のナポレオンの侵攻で、エジプトの援軍として参加した。

VSロシア

エカチェリーナ2世

 では、フランス革命以前の18世紀後半のオスマン帝国はどのような状況であったのであろうか。

 オスマン帝国は、ロシアとの戦争下にあった。時のロシア皇帝はエカチェリーナ2世である。オスマン帝国は、ロシアに敗戦。クリミア半島など黒海北岸をロシアに割譲した。

アリー=ベイの反乱

 18世紀半ば、エジプトの事実上の権力者は、ベイのトップであるアリー=ベイであった。アリー=ベイは、ロシアとの戦争への援軍としてオスマン帝国へ向う準備をしていた。しかし、オスマン皇帝はアリー=ベイの反乱を警戒して処刑命令を出した。これにより、アリー=ベイの反乱が始まった。

 アリー=ベイ自身はこの反乱で亡くなったが、オスマン皇帝はエジプトのベイの統治を容認した。ロシアとの戦争の最中であったため、オスマン帝国もエジプトに全精力を傾けることができなかった。そのため、ナポレオン遠征時のエジプトの主力部隊はベイになった。

ワッハーブ王国

 18世紀半ば、アラビア半島ではワッハーブ派が台頭した。ワッハーブ派とは、ムハンマド時代のアラブ人を中心としたイスラム教へ回帰しようという運動である。サウジアラビアのイスラム教はワッハーブ派である。

 ワッハーブ派はサウード家とむすび、18世紀半ばにワッハーブ王国をアラビア半島に建国した。当時のサウード家はアラビア半島の小部隊の首長であった。このワッハーブ王国が後のサウジアラビアにつながる。

 しかし、このワッハーブ王国は1810年代にエジプト(ムハンマド=アリーによって征服される。