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トルコ・ギリシャ史

18世紀後半のトルコ・ギリシャ ロシアとクリミア半島を奪われる

 18世紀後半、日本は江戸時代後期。松平定信の寛政の改革のころである。

この時代、オスマン帝国は黒海の北部クリミア半島周辺をめぐり、ロシア帝国と戦争を繰り返していた。この戦争は突如として終わった。その理由がフランス革命である。しかしは、フランス革命は新たな敵を呼んだ。ナポレオンのエジプト遠征である。

19世紀のオスマン帝国

 1820年代のギリシャ独立戦争を皮切りに、バルカン半島で独立運動が勃発。1900年代の第一次バルカン戦争でオスマン帝国はバルカン半島から完全に撤退することになる。

ナポレオンのエジプト戦争

フランス革命とナポレオン

 18世紀末のフランスは、フランス革命の真っただ中にあった。その中で頭角を現したのがナポレオンであった。ナポレオンは、イタリア遠征の成功でフランス国民の支持を集めた。ちなみに、フランス革命でロベスピエール政権が成立するとイェルサレムの聖地管理権を放棄した。

ナポレオンのエジプト遠征

 ナポレオンは、イギリスにダメージを与えるため、インドへの玄関口エジプトへ侵攻した。ナポレオンは、エジプトのマムルーク(トルコ人騎兵)を倒し、オスマン帝国からエジプトを奪った。この時、発見されたのがロゼッタストーンである。

 しかし、ナポレオンのエジプト支配は長くは続かなかった。イギリス海軍がすぐに地中海へ向かい、地中海の制海権を確保。エジプトのフランス軍は孤立した。これをきっかけに第2回対仏大同盟が結成された。また、フランスもナポレオンが緊急帰国。ブリュメール18日のクーデターでナポレオン政権が成立した。エジプトに残ったフランス軍はイギリス軍に降伏した。

英雄 ムハンマド=アリー

 オスマン帝国は、エジプト防衛のためにムハンマド=アリーを中心とした外国人傭兵部隊を派遣した。ムハンマド=アリーはナポレオンとの戦いで活躍した。そのため、現地のアラブ人の支持を集めた。これが19世紀のエジプト独立運動へつながる。

vs オーストリア セルビア攻防戦

 オーストリアは、バルカン半島の西北部に位置する国である。時の皇帝はヨーゼフ2世である。ポーランド分割で、ロシア帝国、プロイセン帝国との関係が改善された。
 当時、ロシア帝国は、オスマン帝国と交戦中であった。そのため、ヨーゼフ2世はロシア帝国側で加勢した。バルカン半島西部のセルビア(ベオグラード)を占領した。しかし、イギリスなどの仲介で休戦。セルビアは、オスマン帝国に返還された。

vs ロシア帝国 クリミア半島攻防戦

女帝 エカチェリーナ2世

 エカチェリーナ2世は、ドイツ生まれの女帝である。七年戦争の土壇場でプロイセンの味方したピョートル3世の后である。七年戦争が終結すると、軍事クーデターで女帝となった。

 最大の功績は、オスマン帝国からクリミア半島を獲得したことで上げられる。それ以外にも、アメリカ独立戦争では非武装中立同盟を締結してアメリカを支援した。ちなみに、日本との関係もある。日本人漂流民の大黒屋光太夫を日本へ送り届けた。

第一次ロシア=トルコ戦争

 エカチェリーナ2世は、オスマン帝国へ侵攻。オスマン帝国に勝利する。

 この戦争で、オスマン帝国は、ロシア帝国に対して次のことを認めた。1つは、黒海の北岸のクリム=ハン国の保護権である。これにより、黒海に港を作ることが可能になった。2つ目は、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権である。ダーダネルス=ボスフォラス海峡は、イスタンブルにある海峡で、黒海と地中海を結んでいる。

第二次ロシア=トルコ戦争

 黒海北部のクリム=ハン国のイスラム教徒が、ロシア化政策に反発。ロシア帝国とオスマン帝国は交渉を続けてたが決裂。第二次ロシア=トルコ戦争に発展した。

 ロシア側には、オーストリアがついた。一方、オスマン帝国側には、イギリスとスウェーデンが支援。これにより第二次ロシア=トルコ戦争は国際化した。この戦争はロシア有利で戦争が進んでいった。

フランス革命で救われる

 ロシア帝国は、このままイスタンブールへ兵を進めようとしていた。しかし、これをストップせざるを得ない事態が発生した。フランス革命である。オスマン帝国は、ロシア帝国、オーストリア帝国と講和条約を締結することができた。これによりイスタンブルは戦火を免れた。

 この講和で、オスマン帝国はクリム=ハン国(クリミア半島など)をロシアへ割譲した。

 18世紀末にスルタンになったセリム3世は、軍隊の近代化を進めた。その中で誕生したのがムハンマド=アリーの外国人傭兵部隊である。

サウジアラビアの始まり

 15世紀半ば、イスラム教ワッハーブ派がアラビア人のサウード家の結んでアラビア半島にワッハーブ王国を建国した。このワッハーブ王国が現在のサウジアラビアである。これはオスマン帝国に脅威を与えた。

 ワッハーブ派とは、ムハンマド時代のイスラム教に戻ろうという考え方である。サウード家は、アラビア半島の豪族で

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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