1800年代のスペイン vsナポレオン皇帝

前回の復習 1810年代のスペイン

 1810年代のスペイン。フランス皇帝ナポレオンの支配下にあった。14年にナポレオンが敗北。15年のウィーン会議でスペイン=ブルボン朝が復活。フィルディナント7世が復位。フィルディナント7世は憲法を停止。これによりスペイン立憲革命が始まる。

1800年代の国際情勢

 1800年代、日本は江戸時代。徳川家斉の時代である。

 ヨーロッパは、ナポレオン戦争の時代。

ナポレオンの支配下のスペイン

半島戦争へ

 スペイン国王ホセ1世は、都市部の自由主義者の支持を集めた。一方で、聖職者などの保守派は反発した。聖職者は民衆に呼びかけ、ゲリラ戦を展開した。さらに、イギリス・ポルトガル連合軍もスペインへ侵攻した。

 フランス皇帝ナポレオンはスペインへ援軍を送った。

 この戦争が半島戦争である。

ボナパルト朝

 スペインは、2人の国王が争う内戦直前の状態になっていた。ナポレオンは、この調停にあたった。2人の国王を退け、08年に、ナポレオンの兄、ジョセフ・ナポレオンをスペイン国王に即位させた。スペイン国王ホセ1世の誕生である。

 余談だが、ジョセフ・ナポレオンは06年にナポリ王に即位。08年、スペイン国王になる際に義弟にナポリ王の地位を譲っている。

 国王ホセ1世は、異端審問の廃止などを行い、都市部の自由主義者の支持を集めた。

フィルディナント7世の反乱

 フィルディナント7世は、ウィーン体制でスペイン国王になった人物である。スペイン国王カルロス4世の息子である。

 トラファルガー海戦の敗北で、国王カルロス4世と宰相ゴドイは、国民の信を失っていた。都市部の自由主義者たちは新国王としてフィルディナント7世を望んだ。

トラファルガー海戦に敗北

 04年、ナポレオンが皇帝に即位。これに対して、イギリスを中心とした第三回対仏大同盟が結成。そのような中、スペイン船がイギリス艦隊に撃沈される。

 これをきっかけに、05年10月、スペイン=フランス海軍がイギリスへ侵攻。これがトラファルガー海戦である。

 スペイン=フランス連合艦隊は、イギリスに敗北。これにより、国王カルロス4世は国民の信を失い、弟フィルディナント7世のクーデターにつながる。

ゴドイ政権

 ゴドイ氏は、カルロス4世の寵愛を受けてスペイン宰相になった。しかし、イギリスに大敗したことで失脚していた。

 99年、フランスでナポレオン政権が成立。ゴドイ氏はナポレオンを頼って、00年、宰相に復帰した。その時に使われたのがポルトガルの分割であった。

 02年、アミアンの和約が成立。ヨーロッパにつかの間の平和が訪れた。

ルイジアナ譲渡

 ルイジアナは、アメリカ合衆国中央部で、ミシシッピ川を中心とした大平原である。

 ミシシッピ川の東側は、アメリカ独立戦争でアメリカ領に担っていた。

 問題は、ミシシッピ川の西側(ルイジアナ西部)である。七年戦争でスペイン領とされていた。00年、スペインはフランスにルイジアナ西部を譲渡した。しかし、秘密条約でかつ、その後にゴドイ政権が成立。この条約はあやふやになった。

 02年、ナポレオンはスペインから譲り受けたルイジアナ西部をアメリカ合衆国に売却。03年、スペインのゴドイ政権はルイジアナ西部の譲渡を正式に承認した。

ナポレオン vsポルトガル

ブラジルへ亡命

 07年11月、ナポレオンは、大陸封鎖令に従わないポルトガルへ侵攻。

 ポルトガル女王マリア1世ら王室は、イギリス海軍の支援を受けてブラジルへ亡命した。

大陸封鎖令

 05年10月、ナポレオンはトラファルガー海戦でイギリスに敗北。同05年12月、アウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシア連合軍に勝利。

 06年10月、ナポレオンはイギリスに対して経済制裁を実施した。大陸封鎖令である。

 ポルトガルはこれをガン無視した。その理由は、ポルトガルの海上交易の安全は、イギリス軍に依存していたからである。

 これにナポレオンは激怒。スペイン(カルロス4世、宰相ゴドイ)とともにポルトガルへ侵攻した。

vsナポレオン

 ナポレオンは、ゴドイ氏をスペイン宰相につけようとしたのでしょうか。そこには密約があったからである。それがポルトガル分割である。

 ポルトガルは、フランスとの単独講和を模索。しかし、受け入れ可能な条件が出ず。講和交渉は決裂した。

ラテンアメリカの独立

スペインの混乱

 スペインがナポレオン皇帝(フランス)に征服されると、ラテンアメリカでは独立の動きが高まった。その中心にいたのは、白人移民の子孫であるクリオーリョたちであった。

クリオーリョ(白人移民の子孫)

 クリオーリョは、現地生まれの白人である。本国からの移民と同じく、農地を持つことや会社を経営することはできた。しかし、政治は、本国から派遣する官僚が行い、クリオーリョには参政権はなかった。

ハイチの独立

 1791年、フランスの植民地であるハイチで黒人暴動が発生。その主導者は、トゥサン=ルベルチュールである。当時のフランスはフランス革命の真っ只中であった。フランス革命で成立したジャコバン政権は、ハイチの独立を承認した。

 99年、ナポレオンが政権を握ると、奴隷制を復活。ハイチの独立を取り消した。植民地軍をハイチへ派遣した。しかし、反乱は鎮圧できず、04年にハイチは独立を達成した。

 この黒人の暴動をうけて、多くのクリオーリョたちは、スペイン領のキューバやプエルトリコへ移住した。これにより、キューバではサトウキビのプランテーションが盛んになった。また、これらの国は、90年代の米西戦争までスペイン領にとどまった。

スペイン領メキシコの反乱

 08年、スペインがナポレオンに征服される。これにより、クリオーリョたちの本国人への反乱がはじまった。その始まりは、スペイン植民のメキシコであった。

 10年9月、メキシコのクリオーリョであるイダルコが蜂起。指導者イダルコは、すぐに捕まり処刑された。しかし、メキシコの独立運動は、更に加速した。