1820年代のスペイン スペイン立憲革命とラテンアメリカの独立

前回の復習 1830年代のスペイン

 1830年代、スペイン国王フィルディナント7世が死去。王位継承権をめぐり、自由主義者と保守派が対立。カルリスタ戦争につながる。

 今回は、自由主義者が台頭するようになったスペイン立憲革命を見ていきます。

1820年代の国際情勢

 1820年代、日本は江戸時代。徳川家斉の大御所政治の時代で、江戸を中心に化政バブルが起きていた。

 ヨーロッパは、ウィーン体制の時代。反動政治で都市富裕層が自由主義運動を展開。ギリシャ独立戦争が起きたのもこの時代である。

スペイン立憲革命の影響

スペイン立憲革命

 スペイン立憲革命は、20年1月に起きた海軍のクーデターである。3月のフィルディナント7世は、12年のカディス憲法を復活。絶対王政から立憲王政へ移行した。

19世紀版ブレグジット

 1815年のウィーン会議で、四国同盟と神聖同盟が成立した。その目的は、フランス革命の再発を防止し、現行の体制(ウィーン体制)を維持することであった。

 神聖同盟は、ヨーロッパの大部分の国が参加した軍事同盟である。一方、四国同盟は、当時の強国であるイギリス、ロシア、オーストリアとプロイセン構成された軍事同盟である。後に、フランスが参加して、五国同盟になる。

 スペイン立憲革命が発生すると、フランスは五国同盟で介入しようとした。しかし、イギリスがこれに反発。フランスの単独介入になった。これにより、五国同盟は崩壊した。

イタリアへの波及

 五国同盟の崩壊とスペイン立憲革命は、ヨーロッパの革命者たちを勢いづけた。

 南イタリアでは、カルボナリが蜂起。北イタリアではサルダーニャ王国がイタリア統一へ動き始めた。オーストリアはこの動きに動揺したが、2つの動きは鎮圧された。

 2つの革命は、30年のフランス七月革命につながる。

ポルトガルとブラジル

ポルトガル内戦へ

 ポルトガル内戦は、保守派政権に対し、自由主義者たちが起こした反乱である。

 当時、自由主義者たちは、弾圧を受けていた。

ミゲル1世の反動政治

 28年、保守派が政権を掌握。摂政として帰国したミゲルは、女王マリア2世を廃位した。自ら、ミゲル1世として即位した。これを支援したのがスペイン国王フィルディナント6世である。保守派政権は、26年憲法を破棄し、絶対王政を復活させた。保守派政権は、自由主義者の弾圧を実施した。

穏健派政権 ペデロ4世

 26年、ポルトガル国王ジョアン6世がなくなる。保守派は、オーストリアへ亡命したミゲル国王擁立に動き出した。

 革命政府は、イギリスの支援を元にブラジル皇帝ペデロ1世を国王をペデロ4世として即位させた。ブラジルの人々はこの即位には反対であった。ポルトガルとの同君連合(同じ君主を持つ国の集まり)を嫌ったためである。そのため、次の国王に譲位してブラジルへ帰国しようとした。

 国王ペデロ4世は、保守派との和解のために、2つのことを実施した。

 1つ目は、ミゲルの処遇である。自分の幼い娘マリアに譲位し、ミゲルを摂政としてオーストリアから呼び戻した。

 2つ目は、憲法改正である。貴族院の設置など保守派に配慮した体制に変更された。これが26年憲法である。

ポルトガル・ブラジル連合王国

 当時ポルトガルは、ポルトガル・ブラジル連合王国となっていた。ポルトガル・ブラジル連合王国は、ウィーン会議によって15年に成立した。

 当時のポルトガル王室は、ブラジルにあった。

ブラジル帝国の成立

 自由主義革命で革命政府が成立。国王ジョアン6世は、ポルトガル本国に王太子ペデロを派遣しようとした。しかし、革命政府の反対で、21年4月に国王ジョアン6世が帰国。王太子ペデロがブラジルに残った。

 革命政府は、行政機関をポルトガルに戻し、ブラジルを植民地に戻した。

 これに対し、ブラジルの人々は反発。22年8月にブラジルの人々は、王太子ペデロを皇帝とし、ブラジル帝国として独立した。

 25年8月、ポルトガル革命政府はイギリスの圧力で独立を渋々承認した。

緩衝地帯としてのウルグアイ

 ウルグアイは、ブラジルとアルゼンチンの間にある国である。そのため、スペイン(アルゼンチン)とポルトガル(ブラジル)の間で領土争いが起こっていた。

 18世紀後半、スペイン領になる。1810年、アルゼンチンで独立運動が起こる。ウルグアイも独立運動に参加した。

 アルゼンチンが独立すると、連邦制(地方自治が強い政治体制)を主張し、アルゼンチン中央政府と対立。

 21年、ウルグアイはブラジルに併合される。ブラジルがポルトガル本国からの独立運動を展開すると、24年、ウルグアイはブラジルからの独立運動をスタート。

 28年、イギリスの仲介でブラジルはウルグアイの独立を承認。30年、ウルグアイは建国した。

 1930年、ウルグアイは建国100周年を記念して第1回ワールドカップを開催。初代王者となった。

ポルトガル自由主義革命

 20年、スペイン立憲革命が起こると、ポルトガルでも自由主義革命が起こった。中心となったのは都市部の自由主義者である。

 9月に臨時政府が成立。翌21年1月に、議会(コルテス)を招集。21年7月、ブラジルにいたジョアン6世が帰国。翌22年9月に22年憲法が成立した。

 ポルトガル本国の保守派は、これに反発。ミゲルを担ぎ出して反乱を起こした。ミゲルは、国王ジョアン6世の息子で、ブラジル皇帝ペデロ1世の弟である。

 この反乱は失敗、ミゲルはメッテルニヒを頼ってオーストリアへ亡命した。

ラテンアメリカの独立

大コロンビアの分裂

 大コロンビアは、19年に南米大陸の北部に成立した国である。建国者はシモン=ボリバルである。

 シモン=ボリバルは、26年にパナマ会議を開催。しかし、批准ができなかった。

 30年、シモン=ボリバルが病死。大コロンビアは分裂し、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルに分かれた。

南米最後の植民地 ペルー

 スペインの南米の拠点は、ペルーである。この地は、かつてインカ帝国があった。さらに、価格革命を起こしたポトシ銀山もこの地にあった。

 この地に最初に攻め入ったのは、アルゼンチンに拠点をおくサン=マルティンであった。21年にペルーを独立した。

 サン=マルティンは、ルー人を抑圧する政策を取った。そのため、スペイン軍がペルー人と結びついて内戦状態になった。

 サン=マルティンは、大コロンビアのシモン=ボリバルに協力を求めた。しかし、君主制を目指すサン=マルティンと共和制を目指すシモン=ボリバルは共闘できなかった。そのため、サン=マルティンはペルーから撤退した。

 シモン=ボリバル軍が、ペルーに侵攻。24年、ペルーの独立が確定した。

メキシコの独立

 メキシコは、かつてアステカ王国があった国であるそのため、スペインはここに拠点をおいた。特にアカプルコは、アジア交易の重要拠点であった。

 20年、スペインで立憲革命がはじまる。21年、スペイン本国の自由主義政府に抵抗するため、王党派のイトゥルビデは独立を宣言。自らは皇帝になった。彼を支援したのは、スペイン本国の駐留軍とクリオーリョの富裕層であった。

 イトゥルビデは、スペインの駐留軍指揮官である。1810年におきたイダルゴの蜂起を鎮圧した。

 独立したメキシコは、議会と皇帝は対立。23年、議会は皇帝を追放した。スペインは神聖同盟の支援を受けて、独立運動を鎮圧しようとした。

 これに対し、アメリカはモンロー教書を発表。イギリスはこれを支持。メキシコを支援した。

 元皇帝イトゥルビデは、24年に帰国する。しかし、帰国直後に逮捕され処刑された。

 これにより、メキシコは24年に共和国になった。その後、サンタ=アナ大統領の独裁政権へ移行する。

 スペイン人とクリオーリョの差別はなくなったが、カトリック教会の財産と特権は保護された。

 30年代に入ると北部のテキサスにアメリカ人の移住が始まる。これが40年代のアメリカ=メキシコ戦争につながる。