18世紀前半のスペイン スペイン継承戦争とスペイン=ブルボン朝

前回の復習 18世紀後半のスペイン

 18世紀後半のスペイン。スペイン=ブルボン朝の時代。本家のフランス=ブルボン家が七年戦争とアメリカ独立戦争で国民の信頼を失い、フランス革命で断絶する。

 スペインは、フランスと行動をともにし、ポルトガルはイギリスと行動をともにすることが多かった。

 さて、今回はスペイン=ブルボン家の始まりである。スペイン憲章戦争を見ていきます。

18世紀前半の国際情勢

 1800年代、日本は江戸時代。暴れん坊将軍こと徳川吉宗が享保の改革を行っていたジダである。

 ヨーロッパは、ルイ14世がなくなり、フランスが衰退してイギリスが覇権を握り始める時代。ロシアでは、ピョートル大帝が北方戦争に勝利している。

イエズス会と典礼問題

 イエズス会とは。16世紀に成立した修道会である。東アジアや新大陸に渡って布教活動を行った。

 典礼問題とは、清王朝で行ったイエズス会の布教方法の是非問題である。

 キリスト教は、一神教である。そのため、他の宗教は認めていない。たとえば、16世紀の九州(日本)では、キリシタン大名が神社仏閣を破壊している。

 イエズス会が清王朝で行った布教は、中国古来の儀礼や習慣(典礼)を認めていた。具体的には、儒教の儀礼や先祖崇拝がこれに当たる。

 17世紀に入り、他の修道会が清王朝で布教を開始すると、これがヨーロッパで問題になった。04年、ローマ教会はイエズス会の布教方法を否定した。清王朝の康煕帝は、典礼を行わない宣教師(イエズス会以外の宣教師)の入国を拒否。24年、清王朝の雍正帝は、キリスト教を全面的に禁止した。

 これが18世紀後半のイエズス会の弾圧につながる。

スペイン=ブルボン朝

スペイン=ブルボン朝

 スペイン=ブルボン家は、現在まで続くスペイン王室である。始まりは、フランス=ブルボン家の分家で、太陽王ルイ14世の孫が始まりである。

 なお、3度ブルボン朝は停止している。

ブルボン家

 本家のブルボン家の始まりは、13世紀までさかのぼる。アルビジョア十字軍を指揮したルイ9世(カペー朝)がフランス国王になった。14世紀の百年戦争の頃に、ルイ9世の孫がブルボン公になった。これがブルボン家の始まりである。

 16世紀後半のユグノー戦争で勝利して、ブルボン朝が始まる。

ジェンキンスの耳戦争

 ジェンキンスの耳戦争は、アメリカを舞台にイギリスとスペインが戦った戦争である。39年にはじまり、48年に終結した。

 舞台は、スペイン領のフロリダとキューバなどであった。翌40年に始まったオーストリア継承戦争の影響で戦争は長期化。結局、この戦争で、両国は何も得るものはなかった。

 イギリスは、ユトレヒト条約で得たアシエントをもとに、大西洋貿易を拡大しようとした。しかし、アシエントで得た貿易枠はそれほど大きなものではなかった。そこで多くのイギリス商人は、スペイン領で密貿易を行った。イギリス商人ジェンキンスものその1人であった。

 ジェンキンスは、スペイン船に捕まり交流された。釈放後、イギリス政府に不当な交流と訴えた。そのとき、証拠として提出されたのが自分の耳であった。これにより、始まったのがジェンキンスの耳栓そうである。

ユトレヒト条約

スペイン=ブルボン家の成立

 01年にスペイン国王に即位したブルボン家のフェリペ5世をヨーロッパ各国は承認した。

 ただし、スペインとフランスが合同しないことが条件とされた。これにより、フェリペ5世は、フランスの王位継承権を甥のルイ15世に譲った。

 これにより、スペイン=ブルボン家が成立した。

イギリスへの領土割譲

 スペインは、イギリスにミノルカ島とジブラルタを譲渡した。

 地中海と大西洋の間にはジブラルタル海峡がある。その近郊に当たる。そのため、イギリスが地中海に入るための重要な拠点である。

 ミノルカ島は、アメリカ独立戦争でスペインに返還された。

 一方、ジブラルタは、現在もイギリス領である。

イギリスにアシエントを認める

 ユトレヒト条約で、アシエントはフランスからイギリスへ譲渡された。

 アシエント権とは、スペイン王室が認めるスペイン植民地(南北アメリカ大陸など)で奴隷を販売する権利である。

 イギリスは、アシエント権を利用して、大西洋三角貿易を拡大し、莫大な資金を獲得。これが18世紀から始まる産業革命につながる。

 01年に、スペイン=ブルボン家が成立すると、アシエントはフランスの会社が独占した。これが13年のユトレヒト条約でイギリスに渡った。

 アシエントは、スペイン語で「契約」を意味する。元々は、スペイン王室が商人と交わした借入契約が始まりである。

 16世紀、スペイン王室は度重なる戦争で財政が悪化した。そのために商人から借金を行った。スペイン王室は返済の代わりに徴税権(国家の代わりに税金を集める権利)を付与した。そこで一番人気が高かったのがスペイン植民地(南北アメリカ大陸)の奴隷販売にかかる関税であった。そのため、17世紀には、アシエントは植民地での奴隷販売権を意味するようになった。

 具体的には、イギリス商人(南海会社、のちにカディス黒人会社)がスペイン王室に黒人奴隷の関税を前払いする。イギリスは、アフリカで奴隷を仕入れ、大西洋を横断。スペイン植民地(メキシコ、南アメリカなど)で奴隷を販売。売却代金から、関税、仕入れ代金、輸送コストを引いたものがイギリス商人の収入担った。関税を支払っても莫大な利益が出る交易路であった。

イタリアとブラジル

 17世紀のイタリアは、多くの国に分割されていた。スペインもその1つであった。北イタリアのミラノ公国、中部イタリアのサルディーニャ島、南イタリアの両シチリア王国(ナポリ王国とシチリア島)である。スペインは、北イタリアの諸侯のサヴォイア家にシチリア島を割譲した。このサヴォイア家は、オーストリアとサルディーニャ島とシチリア島を交換。これにより、サヴォイア家はサルディーニャ王国になる。後のイタリア王国である。

 ポルトガルは、スペイン領アルゼンチンの北部を獲得。ポルトガル領ブラジルの領土は拡大した。

オーストリア=ハプスブルク家へ割譲

 オーストリア=ハプスブルクとの領土交渉は13年のユトレヒト条約で決裂。翌14年のラシュタット条約で解決した。スペインが、オーストリアに割譲したのは以下の領土である。

スペイン継承戦争

概要

 スペイン継承戦争は、スペイン王位をめぐりフランスとオーストリア(神聖ローマ皇帝)の間で行われた戦争で合う。01年に始まり、13年のユトレヒト条約で終結した。

 当時のヨーロッパの戦争は全世界に飛び火した。特に戦場になったのはアメリカとインドである。

孤立するフランス

 フランスとオーストリアの間で行われた戦争であるが、多くのヨーロッパの国々はオーストリア側についた。その代表国は2つである。

 1カ国目は、イギリスである。イギリスは、アメリカとインドでフランスと植民地争奪戦(英仏第2次百年戦争)が行われていた。

 2カ国目は、プロイセン(のちのドイツ)である。プロイセンは、プロイセンは神聖ローマ帝国内の1諸侯国である。当時、プロイセンは公国であった。神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)は、スペイン継承戦争で味方することの見返りに、プロイセンを王国に昇格させた。

 スペイン継承戦争の前に、ヨーロッパ諸国が反フランスとして団結する戦争があった。88年に起きたファルツ戦争である。これにより、神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)を中心にアウクスブルク同盟が結成された。

きっかけはスペインの王位継承問題

 原因は、スペイン=ハプスブルグ家の王位継承問題である。

 00年、スペイン国王カルロス2世がなくなる。王位継承者になる息子も兄弟もいなかった。これにより、スペイン=ハプスブルグ家は断絶した。

 スペイン国王継承者に上がったのはカルロス2世の2人の姉妹の嫁ぎであった。フランス=ブルボン家とオーストリア=ハプスブルグ家である。

 この2つの家がスペイン王位を巡って起きたのがスペイン継承戦争である。

背景はルイ14世の領土拡大戦争

 18世紀初頭にヨーロッパの中心にいたのは、ルイ14世である。ルイ14世は、フランス国王で太陽王と呼ばれていた。

 この時代、貴族の発言力が低く、国会(三部会)も開かれていない。絶対王政の時代である。

 経済力も高い。インドやアメリカなどの海外植民地との交易で莫大の富を得ていた。

 絶対的な権力を使って、フランス国王14世が実施したのが領土拡大戦争である。