前回の復習 1940年代後半のスペイン
戦後のスペインは、フランコ総統の独裁政権が続いていた。敵対するソ連と遺恨が残るアメリカが主導権を握った。そのため、フランコ総統は国際的に孤立した。これを打破するために、国民投票で王位継承法を制定。独裁政権の正統性を国際社会に主張した。
ポルトガルは、サラザール独裁政権が続いていた。サラザール独裁政権は、スペインと違いアメリカ・イギリスと良好な関係を築いていた。
1940年代前半の国際情勢
1940年代前半は、第2次世界対戦の真っ只中であった。イギリスを中心とした資本主義陣営、ソ連を中心とした共産党勢力、ナチスドイツを中心としたファシズム勢力の三つ巴の戦いであった。
第二次世界大戦の構図
第2次世界大戦は、資本主義陣営のアメリカ・イギリスと社会主義陣営のソ連が、ファシズム勢力の日本・ドイツに勝利して終わり、国際連合が結成された。
しかし、この構図は最初からあったものではない。表で戦争を行いながら、水面下で外交戦が展開されていた。事実、日本は終戦直前の45年8月までソ連と中立条約を締結していた。
戦争の構図は、戦争が終結して初めてわかることもある。現在(2022年)行われているウクライナ紛争も、私たちはすべての情報を見ているかは不明である。まして、戦争の当事者であるウクライナやロシアの人々はなおさら限られた情報で国際情勢を判断しなければならない。
戦争が始まると、小国のトップたちは、国の存亡をかけてどちらが勝利するか予測しなければならなかった。第2次世界大戦時のフランコ総統もその1人であった。
フランコ総統と国際関係
フランコ総統と第2次世界大戦前の大国との関係を見ていこう。
フランコ総統は、スペイン内戦で人民戦線内閣に勝利して総統の地位についた。このとき、味方になったのがナチスドイツであり、敵陣営の人民戦線内閣についたのがソ連である。なので、フランコ総統は、一貫して反ソ連の政策を取り続ける。
この当時のスペインとアメリカの間には大きな溝がある。これが米西戦争である。そのため、スペインとアメリカの関係は良好ではなかった。
再中立宣言
42年、ドイツ軍は、スターリングラードの戦いで大敗。ドイツが劣勢になる。そこで、フランコ将軍はドイツと英米によるソ連包囲網を提案した。
しかし、英米はこれを拒否した。この背景には41年の大西洋憲章がある。英米が掲げる大西洋憲章にソ連が参加した。
ソ連包囲網が消滅すると、フランコ総統はドイツ派の外務大臣を更迭。イギリス派の外務大臣を就任させた。
43年、イタリアで親ドイツ派の政権が倒れる。イギリス派の政権が成立。ドイツに宣戦布告した。フランコ総統もこれに追随。ドイツへの宣戦布告は行わなかったが、イタリアの新政権を承認。ドイツ航空機のスペイン上空の飛行を禁止した。
ドイツのヒトラー総統は、フランコ総統に激怒した。しかし、ナチスドイツにスペイン侵攻を行う余裕はすでになかった。
45年6月、ドイツが降伏。ヨーロッパでの第二次世界大戦は終結した。このあと、アメリカとソ連の影響で、スペインは国際的に孤立していく。
ソ連に義勇軍
41年6月、独ソ戦が始まった。このとき、フランコ総統は中立の立場をとり、正規軍を参加させなかった。かわりに、「青い旅団」という義勇軍をドイツ陣営側に派遣した。
日独伊三国同盟に参加せず。
40年8月、ドイツはパリを陥落。フランス北部を占領し、南フランスにヴィシー政権を樹立した。
ドイツは、独ソ戦の準備として、同盟交渉を開始した。ここには、日本とイタリアの他にスペインも参加していた。
スペインは、三国同盟参加の条件として旧フランス領のモロッコ・アルジェリア(北アフリカ)を要求。しかし、ドイツはこれを拒否した。なぜなら、ヴィシー政権(フランス)がこれを容認しなかったからである。
これにより、スペインは独ソ戦には正規軍をださずに、義勇軍を派遣した。
なぜ、フランコ総統は中立の立場を取ったのか。
フランコ総統は、スペイン内戦の関係から、ドイツ陣営でさんせんするはずである。しかし、フランコ総統は、ドイツと距離をおいた。その理由は、独ソ不可侵条約である。
39年8月、ドイツはソ連塗布関心条約を締結。翌9月、両国はポーランドへ侵攻した。フランコ総統は、冒頭で説明した通り、一貫して反ソ連の政策を取っている。これは容認できないことであった。
フィリピンと第二次世界大戦
スペインとアメリカ
スペインとアメリカの間には大きな溝がある。1890年代の米西戦争である。この戦争でスペインは2つの植民地を失った。フィリピンとキューバである。
第二次世界大戦とフィリピン
41年12月、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発。またたく間なフィリピンは日本領になった。
しかし、このあと日本とスペインの関係は悪化していく。スペインは、日本政府にフィリピン国内のスペイン人の本国送還を要求。しかし、日本はこれを拒否した。これが原因でドイツとスペインの関係も悪化した。
日本と国交断絶
45年1月、マニラの戦いで日本はフィリピンを放棄。スペインは日本にこの戦いによる賠償を請求。日本はこれを拒否。スペインはこれを口実に劣勢の日本を見放し、国交を断絶した。